「喪の作業」と『荒地の家族』20240105(第28回)

今回は、2023年1月に芥川賞を受賞した佐藤厚志『荒地の家族』を読みながら、フロイトの概念である「喪の作業」と対比することによって、死者の声を聞くいとなみとしての文学の意味を考えてみたいと思います。
『荒地の家族』は2022年12月に文芸誌『新潮』に掲載されました。震災以後を生きていた祐治が主人公です。祐治は造園業を営んでいましたが、その一切を津波で失います。その2年後、まだ幼い幼い息子の啓太を残して、妻の晴海がインフルエンザで亡くなります。その6年後、知加子という女性と再婚をするのですが、流産を機に、離婚をされてしまいます。祐治自身は直接震災で家族を亡くしたのはありませんが、彼のその後の生活は、こうした死の薄暗さがさしています。
愛する人を亡くしたあと、人は喪の状態に沈みます。その後の人間の心の動き、もう少し専門的なことばで言えば、心、すなわち心的プロセスを叙述したのが、フロイトの古典的な論文「喪とメランコリー」です。この論文が発表されたのは1917年で、今から100年以上前ですが、この論文に書かれた「喪の作業」は今でも有名な概念です。
「喪の作業」のプロセスでは、人は最初愛する人を亡くしても、その人への愛着をとくことはありません。そして愛する人とのさまざまなかかわりを再現して、それを意味づけていきます。そのようなプロセスを経て、やがて人はその人が亡くなったという事実を受け入れます。フロイトによれば、「喪は自我に対象を諦めさせようとして、対象が死んだことを説明し、 生命を維持することの利点を自我に示す」。つまり人は無意識の欲動によって生を選択するように迫られるということです。まとめるならば、人は、愛する人を亡くなったあとに、その人がまだ生きているという思いは幻想にすぎず、現実にはその人はいないと理解し、自ら生の歩みを再開する作業だと言えるでしょう。
しかしながら、こうした喪の作業を拒否し、死にこだわり続ける世界を描くのが実は文学です。実際この『荒地の家族』は、喪の作業をはからずとも拒否している姿として、祐治を浮かべることができるのです。
祐治は何年しても晴海の死を思い起こします。そしてある夜中に、台所にたつと、白い装束をきた晴海の姿を見かけます。その時祐治は激しく晴海の声を聞きたいと望みます。だがそちらに視線をみすえると、そこには雨合羽があるだけです(p. 70.)。こうして祐治はたえず死者の声を求めて、死の世界へと引き込まれそうになります。
別の場面で、祐治は海を見ながら、 次のような印象に打たれます。「祐治は死んだ者らに取り込まれる瞬間があった。責めるのでもない、追い立てるわけでもない。死者が手に手を取り合って自分を見ているようで、呼吸もままならない。」(p. 111.)。死者の声を聞こうとすることは、こうして自らも死の世界へと入り込むことでもあるのです。
祐治はその意味で、「喪の作業」をたどることはありません。今、述べたように、決して生を回復させるのではなく、望みと恐怖の間をさまよいながら、死と背中合わせにいるのです。その祐治の思いは次のような言葉で語られます。「死んだ人間によりかかっていたら、自分も半死半生だと思った。それでも何度も立ち止まって、死者を思い、自分に何ができて何ができなかったを考えてやりきれなくなる。」(p. 142)。フロイトは幻想と現実を切り分けることを「現実吟味」と呼びましたが、まさに祐治は現実を吟味できず、生と死の間を漂っているです。
フロイトの喪の作業とはことなる、人のあり方をこの作品はどう描いたのでしょうか。日々仕事をして残された息子を育てている、つまり生命としては生きているけれども、心の中には「寂しさや孤独、薄暗さ」の 領域が残されたままです。小説は死に近い領域、恐怖であっても、同時に親しさをおぼえさせる領域を描いているのです。
人は決してプロセスを歩むのではない。生と死の世界を生き来しているのです。そして文学は、現実の世界では「生きる」ことを選ばざるをえなかった後悔を、「いつまでも死にひたってよい」と許してくれる。文学の存在意義のひとつは生へ向かわざるをえない人間の暗い部分をすくいあげることにあるのではないでしょうか。 佐藤厚志『荒地の家族』はその文学の存在意義を確証させてくれる優れた作品であると思います。

慶應義塾大学教授 國枝孝弘

参考文献
佐藤厚志『荒地の家族』(新潮社 2023)
フロイト「喪とメランコリー」『人はなぜ戦争をするのか』(光文社古典新訳文庫 2008)所収。

声のつながり大学2024年1月5日(金)放送アーカイブ