2020年度第1回声のあつまり「安永二年の疫病流行―江戸、東北地方を中心に―」質疑記録(20200614)

「安永二年の疫病流行―江戸、東北地方を中心に―」(報告者:菊池勇夫・日本近世史)報告後質疑

間瀬:面白いお話をありがとうございました。漢字が多い資料を見るといつも「理解できるだろうか」と不安になることが多いのがお恥かしいところですが、今回は事前にお送りいただいた資料に目を通してからご発表を拝聴することができて、なんて面白いお話だろうと気づかされます。では質疑に入りますが、まず私から一つお尋ねさせてください。安永期は「田沼時代の重商主義で、経済活動が盛んな時期だった」といわれているのだが、しかしこの時期にこそ疫病があったと、と冒頭で述べられたところから印象的でした。たとえば気仙郡(岩手)のほうで数千人が死ぬとか、江戸でもまったくただ事ではない疫病であったと。しかも、少なくとも東北のほうでは1,2年ではまったく終息せず5年ほどかかったという、まったく小さな出来事などではなかったことでも、歴史の教科書にはほぼ載ってこない。江戸時代というと天明の大飢饉くらいは少し習いますが、それも、飢饉の話ですね。疫病の話というのは本当に、学校で習う歴史では語られない。あくまでも、田沼時代で、国としては潤った、というところだけが一般常識として日本で語られている。このあたりのことをどうお考えですか。

菊池:江戸時代という社会をどういうふうにとらえるか、でしょうね。以前は、封建時代とかいうことで教科書に出てきて、領主が農民から年貢を取って成り立っている社会だというように説明されてきましたが、それ以上に、貨幣とか流通とか市場だとかそういった、経済社会へと変化しているということでしょうね。江戸時代は260年くらいあるんですけれども、江戸中期以降は、経済社会であるということをベースに考えないと、すべての物事が理解できない。それから、気仙郡も、仙台藩領になっていますが、これも海の世界ですから、外と船でつながっていて、人々の動きがかなり存在しているということですね。もちろん一方では、藩がひとつの国みたいなものですから、藩から出ていくということは簡単なことではなくて、ルールに則らなければならないということがあります。しかしそれでも、人々の動きがどんどん大きくなってきた頃だ、ということですね。天保のインフルエンザのことも、驚かされるのですが、長崎にインフルエンザが入ってきて、それが三か月か四か月で、松前まで行きつくわけです。つまり東海道などの街道筋だとか、あるいは船の行き来で、北上していって、三、四か月で日本列島を縦断してしまうような、そういう社会だったということではないでしょうか。江戸時代の、17世紀あたりではまだそこまでいかないですが、18世紀に入ってきますと、かなり近代社会に近い、市民社会に近いような、そういう人間の動きに近くなってきているということを想定したほうがいいだろうと思います。昔はたしかに、百姓は土地緊縛で、一歩もそこから出られなかったというイメージが語られることが多くて、農本社会ですね。確かにそれは、江戸時代の基本です。田沼の次の松平定信の時代というのは農本主義に立ち戻ろうとするような、徳川幕府の三大改革というのはだいたい、経済社会を元に戻す、農本社会に戻すということですから、基本的には。そうやって、徳川体制を元に戻して立て直し、リセットして長生きさせようということでした。経済社会が進行してくると、中央と地方の経済的な関係がはっきりしてきて、飢饉のときも、江戸に餓えた人たちが集まってくるということもみられましたが、そんな社会を想定しないと理解できないだろうということです。
間瀬:はい、ありがとうございます。では、他にご質問いかがでしょうか。
國枝:間瀬さんもおっしゃっていましたが、資料を事前にいただいていて、そのあと実際にお話しをいただいて、理解が深まったので、お話を聞かせていただいてよかったなあと思いました。それで、お聞きしたいのは、菊池先生が最後におっしゃっていた、感冒とはちがうものがある、というところですね。その正体はつかめていないけれど、というお話がありました。こういうことに詳しくない立場からなのですが、江戸時代にこういう冷静な観察がなされ、どこに原因があるかということも考えられていて、しかも病気に対するかなりの理解があるのだな、ということですね。そしてその一方で、穢れを祓う、ですとか、お札を貼る、ですとか、そうした、あえて言うならば、迷信と言ってもいいような。つまり、一方では冷静な観察があり、もう一方では今言ったような、迷信、という言葉が正しいかどうかわかりませんけれどもそれに近いような、そういった動きもある。その二つのバランスを、どう考えたらいいのかというのを、先生のお話を聞いていて思いましたので、お考えをお聞かせいただけたらと思います。

菊池:こういう疫病に医薬の世界はどう関与しているかという問題もあるかと思うんですけども、もちろん医者という存在は古代からあったでしょうけど、江戸時代で言いますと、享保の改革のときに、朝鮮人参のことも出てきましたけども、将軍吉宗のあたりで国産の朝鮮人参の栽培ですね、そういったことを積極的に進めていこうという動きが始まります。幕府がそういう医薬を救済のために活用しようとしたのも、やはり享保の飢饉なんですね。享保の飢饉というのは、享保の17年、18年、西日本の、特に四国とか九州。ウンカという虫の害です。気候変動ではちょうど温暖な時期なんです。ウンカというのは、空飛ぶウンカと言われていまして、梅雨の時期に中国から飛んでくるんです。そして、急激に増えて稲の液を吸って枯らし、大凶作になり、享保の飢饉になるんですね。そのときに、德川幕府が、幕府に仕えているお医者さんに薬を、どんなものが効くかということで、作らせるんです。それをお触れで各村に伝わるようにしていくというようなことをやります。その後の天明とか天保の飢饉のときにも、同じようなお触れを出しているんですね。それから、江戸の町でも、先ほど出てきましたけれども、朝鮮人参を配るだとか、そういったふうな、いわばお上のほうからの救済対策みたいのが医療を通じて始まってくる。それが享保ぐらいからということですね。
それからもう1つは、ここで紹介したのは、杉田玄白とか工藤平助ですけれども、18世紀の後ろのほうから19世紀にかけて、日本における蘭学、洋学と言いましょうか、西洋医学が入ってくる。そういう時期になります。玄白らって蘭方医ですから、そっち以外勉強していないかと思ったら、そうじゃないんですね。漢文の素養がすごくありますね。だから、大槻玄沢でも、彼らの書くものって漢文なんです。我々が使えないような漢文を書いているんです。中国の、平助が述べていた「瘟病」(おんびょう)のようなものにしても、いいかげんな迷信とはいいがたい、やはりそれなりの観察や経験の蓄積の中で書かれた本などが日本に輸入されてきていて、それを相当読みこなしているということです。工藤平助は教科書で、「赤蝦夷風説考」とかでしか私たちは教わりませんけれども、晩年なんですけど、まさか感染症について著作を残しているとは、全然、私、認識もしていなかったんですけども、やはりお医者さんですね。何か医学で自分の役割を果たしたいという気持ちがそうさせていると思うんです。
蘭学から洋学へ、漢方医学と西洋医学を突き合わせながら、その病症とかをよく観察しながら、これが何なのかということを確かめていく。その後、さらに西洋の新しい近代医学の知識が入ってきますから、飢饉下ではやった疫病(熱病)にしても、漢方では傷寒と言われるのは大体チフスということに、19世紀に入ってくると、だんだんと気づいてくるんですね。まだ18世紀の段階だと、そこまで行っていなかったでしょうが、西洋医学と東洋医学の接触の中で、日本的な展開が生まれてくるのかなという、そういう理解をしているんですけども。ですから、伝統的に村の中で行われてきた習俗とかと、両方並列して存在しているんですね。村の中に医者がいるようになるのは、寺子屋とほぼ同じ時期、18世紀後期くらいからでしょうか。本格的には19世紀に入ってからなんです。そうなってくると、農民も医者の恩恵ということを、医者にかかろうかという意識へとだんだんと変化していきます。
従って、この時期は、そういう転換期ですね。古いものと新しいものが接触したり、そこで反発し合ったり、何かいろいろなものがここで起きているという、そういう状況なんじゃないでしょうか。近代ははまだ遠いし、まだそこまで行っていない、かといって、かつてのまじないだけの世界でもない。ちょうど間ぐらいの移行期的なところなんじゃないでしょうか。
國枝:わかりました。ありがとうございます。
栗原:では、私もひとつ、いいですか。すごくいろいろなことを学べるご発表でした。特に興味がありましたのが、例の疫病の神ですか、箱に人型を作って入れて、流して、戻ってきちゃったというものですけれども、あれ、海のところだったら、確かに海に流すという発想になると思うんですが、山のほうだと、疫病を送るという場合は、どういうふうな形になるんでしょうか。
菊池:境界領域ですよね。山のほうだったら、境界に行って、そこで捨ててくるんです。そのため、場合によっては、村同士でけんかになりかねないんですね。疫病を送られたらたまりません。虫送りもそうなんですけど、さきのウンカだとか虫害を起こす虫ですね。虫送りだとか疫病送りだとか、あるいは泥棒送りだとか、いろいろな「送り」というのがあるんですね。つまり、自分の住んでいるところを神聖な場にするということで、当時は疫病神(やくびょうがみ)という、取り付いた悪い神様が病気を起こすと考えられていましたから、それを祀り捨てるみたいなことをするわけです。そうやって清浄を保つということなんですね。ですから、境界領域、外の世界へ追っ払っちゃうというようなことです。そういう心意というのは、疫病だけじゃなくて、いろいろなレベルで働いていたというふうに思いますね。
多かったのは、モガサ(疱瘡)送り。大体、辻とか、境界とか、そういったところで行われるんですね。さっき申し上げた虫送りだったでしょうか、村境で捨てられる村があるわけです。そうすると、捨てられた村が嫌がるわけです。そこで、また次に送るんです。連鎖的に送るみたいな、そのように地域でルール化されていた事例も確かありましたね。それは疫病だったか虫のほうだったか、ちょっと今、記憶が定かじゃありませんけど。
間瀬:連鎖的、ですか。
菊池:連鎖的に。虫送りだったでしょうか。その送り方をめぐって村同士で大きなもめごとになることもありました。そうした事例が山形県にあり、論文を前に読んだことがあります。
間瀬:なんだかハンカチ落としみたいですね。鬼ごっこみたいな感じがありますね。
菊池:あと、鹿島信仰の鹿島送りだとかね、あと、八坂神社の祇園祭だとか。送り儀礼と関わっているんじゃないでしょうか。秋田県なんかでも、鹿島送りがありました。そうやって追い出すのと、もう1つは、村の境でせき止める、遮断するということです。村境や峠の神様、道祖神とかね。悪いのが入らないようにするため、村境にでっかい人形を建てるんですね。そんな事例もあります。このように入ってこないようにするのと、送り出すのと両方あるんじゃないでしょうか。
栗原:ありがとうございました。
間瀬:今の関係で、先ほど境目にあっただろうと。近代にはまだ届いていないんだけれども、伝統的な、いろいろ村で決めていた何かを祓うような仕組みとかがある一方で、お上から人参を配られたりするような、そういう医学とまじないのようなものが、まじないじゃないんだけれども、まじないじゃない部分もありますよね。送るというのは、要するにそれと自分たちを切り離すことだから、ウィルスとか菌に関して言えば、本当にそこは離れることができるから、ある種、それは非常に合理的という考え方も言えて、まじないだから駄目ということでもないだろうと思うんだけど、そういう古いものと新しいものというのがある。そういう中で、いわゆるまじないは、うそだというか、まじないは効かないんだという発想は、いつぐらいから出てきているのかなというのがすごく気になるんですね。なぜか、道祖神にしても、いろいろなお祭りにしても、今まで、残っているじゃないですか。それは、私たちにとって汚れを祓うとかということであって、だから続いているのだとして、他方いつからか、これは効かないということも、人は知るんだと思うんですよね。そのあたりはせめぎ合いだと思うのですが、この時期はどうだったんでしょうか。
菊池:そうですよね。青森の事例でも、山伏が疫病送りをしていますね。でもその山伏の人たちも全部罹って、死んじゃったみたいに、書かれていますよね。これじゃあ、やはり信用を得られない。全然ね。
間瀬:だから、やめたほうがいいよこれ、と感じないんでしょうかね。
菊池:日照りのとき、雨を降らすために雨乞いをするでしょう。それで、修験が関わって、雨を降らなかったら、信用を失いますよね。そこは、実際にそれが効いたか効かないかというところでは、村人は冷静に見ているんじゃないでしょうか。だけど、全部それを否定しきるわけじゃなくてね。方法が別にあるわけじゃないですから。薬の世界だって、本当のところ、効いているのか効いていないのか、わからない。朝鮮人参が効いたのかわかりませんけども、朝鮮人参への期待と、それから山伏が祈ったのと、どっちが効くのかっていうか、そこのところを人々はどう受けて見ていたのか。取りあえず、そういうありがたみのあるものは、とにかく何でもというところはあるんじゃないですか。
間瀬:朝鮮人参と言われれば、でも、みんな黙るわけですね。取りあえず。「そんなありがたいものを」という感じで。
菊池:薬効ないとは言えないってことでしょうか。よくわからないけど。
間瀬:今回、ご発表にあたって、前の論文をいくつか、事前にお見せいただきました 。それの中に、お薬とか医療に頼るという以前に、食料がちゃんと流通して足りていれば、疫病にかかる人は少ないという話がありましたね。要するに、人参をくれるよりも、食べ物をきちんと心配するほう大切なんだ、っていうね。でも、朝鮮人参をもらうと、やはり、何となく「ははあ」とならなきゃいけないみたいなのは、考えてみれば、医療もちょっとまじないっぽい部分がやはりあったということなんでしょうね。その辺も、だから、せめぎ合いというか、転換期ということなんですかね。
菊池:疫病もさまざま種類があるので、飢饉のときには、そういう栄養失調みたいなものがベースにあって、免疫力が落ちているところで罹るので、今だって、免疫力、自然免疫と言うんですか、そういうものをどれだけその人が持っているか持っていないかは、食べ物の問題とかとやはり関わってくるでしょうから。個人差もあるでしょうしね。そういえば、最近のコロナは、老人がかかるとちょっと……と言われていますね。
間瀬:あ、そうなんですよ、お聞きしながら、あれ、これって今まさに言われてる話みたいだと思いました。
菊池:なんかね、この資料を見ていて、最初は全然気が付いていなかったんですけど、何となく今まで見ていた疫病とは違うなという感じがして。
間瀬:タイムマシンに乗ったような感じに一瞬なりましたよね。皆さんほかにご質問、ご意見ありましたらどうぞ。
安部:第2波以降で死者が増えたりとか、あるいは人が旅することでうつるとか、何度も流行するとか、本当に18世紀のこととは思えない、今まさに起こっていることかなと思いながら聞いていたんですけれども、質問が2つありまして、まず1つめが、皆さん方の質問との関連で、疫病と社会の認識についてです。例えば、はやり病があったときに、それまでの人々というのは、基本的には軽く済んだりとか、ひたすらうつらないことを祈るとかという形でやり過ごしていたのかなと思うんですが、例えば享保のときもうそうだし、今回も幕府が朝鮮人参をくだし賜るというところで、幕府が何とかしなければいけないというふうな社会の認識が、この当時人々の間にあったのか、それともそうじゃないのか。どういうふうに捉えたらいいのかというのをまず教えてください。
菊池:それは享保のあたりから始まるというふうに思います。吉宗政権をどう評価するかというところがあって、お上が何かしなきゃならない、そういう意識が大変強く吉宗自身に存在したんですね。享保の飢饉もそうなんですけども、大坂にある米をどんどん西日本に送るんです。国家が上に立って、主導的に救済に臨んでいかなければならないというふうに考えた人なんですよね。医療的なことを含め、そういう社会政策的なものというのは、この人の頭の中にあったと言っていいかなと思うんですけども。さつまいもの青木昆陽だとか、そういう人たちも思い浮かぶと思うんですけども、社会政策的なことを国家が始める最初だったのかもしれませんよね。それが吉宗政権の特色かなと思います。
一方、田沼時代というのは、全くそれをやらない。極端に言えば、新自由主義的な、そういうふうに民間に任せちゃうみたいな世界かもしれませんね。そして天明のうちこわしという、富める者たちへの民衆の反発が出てきます。田沼にはそういう傾向があるんです。そして松平定信が出てきます。定信は田沼とは逆の方針を取るんですね。封建的な社会政策を始めたということで再評価されてきているんですけども、つまり、備荒貯蓄ですね。災害に備えて、米を蓄えておく、お金を蓄えておく。そして、困ったときに、それを分け与えていく、そういう、セーフティーネットみたいなものです。地域社会を巻き込んでそれを始めたのが、寛政の改革だと言われているんですね。それがその後の社会政策の基本になっていくのかなという感じがするんです。
ですから、近世の国家の中でも、初歩的には吉宗政権ですね。本格化するのは、定信政権なのかなというふうには思います。領主制の社会なんですけども、飢饉などに備えてそういう社会政策をしていかなきゃならないという意識、それは、1つには、儒学的に言うと、仁政という観念と結びついていると思うんですね。仁の政治ですね。要するに、民のことを思いやった仁政を施す、これが政治家、領主たる者の責務。これが儒教的な政治理念なんです。大方の殿様は、それをやっているわけじゃないですよ。だけど、中には、そのように振る舞わなきゃいけないと受け止めて、国の主たる者は、民のために働かなきゃならないと考える、為政者も出てくるんですね。そういうことを意識したのが定信であろうし、あるいは非常に評判のいい上杉鷹山だとか、もっと古い時代で言えば、池田光政だとかね。岡山藩のね。そういう人たちは仁政を意識したんですね。
災害なんかも、なぜ起こるかというと、政治の行いが悪いから起こるんだと。だから、災害は、為政者を戒めるために天の神様が起こした災害なんだと認識するんです。これが仁政的な捉え方なんです。江戸時代の社会というのは、揺り戻しがあったり、それでも経済社会、市場社会の方向へ動いていますから、農本社会とのせめぎ合いというのがあります。国家のほうも、前に乗り出して救わなきゃいけないと考える。そのいっぽう、全然お構いなしで、ほとんど何もしてやらない、放任みないな、そうした揺れのようなのがあるんじゃないでしょうか。吉宗は、享保の飢饉では米なんかを西日本に運んだんですけども、天明の飢饉のときには、幕府は東北の藩に対して米を出していませんからね。少しだけお金を貸したところがありますけども、救済の姿勢は全然違います。
間瀬:そんなに違うんですね。
菊池:違いますね。将軍によってね。
安部:ありがとうございます。幕府の、必ずしもここで政策、論法、構成が決まるわけじゃなくて、揺り戻しがあってみたいなのがすごく面白いなと思ったとともに、マスクを配るだけじゃ駄目だから、10万円も給付する みたいな今の状況とも非常に通ずるものがあったなと思いながら伺っていました。
すみません。もう1つ質問なんですけれども、この疫病と記録についてなんですが、今先生がお話ししてくださったような、例えば医師による記録であるとか、あるいは道祖神とか石碑とか、恐らくいろいろな文書だとか、ひな祭りとかひな送りみたいなものも、きっとこれと関連するんだろうなと思うんですが、一方で、社会として、幕府としての疫病の記録というのはあるんですかね。
菊池:いわゆる行政文書、そういったものがどれだけあるかですね。江戸であれば、かなり感冒、インフルエンザですけどはやったときに、江戸の町会所ってありますね。七分積金でつくった制度ですけども、インフルエンザがはやったとき、飢饉じゃなくてもね、米とかなんかを、罹った人たちが働けなくなるでしょう。そういう人たちを救済しているんですよ。そのために町会所というのが機能しているんです。これは、定信の時代に始まった一つの社会政策ですよね。飢饉のときではなくて、病気がはやったときに、働けなくなった人たちに現物を支給しているということですよね。そのあたりもいろいろと、現代とも通用するような話ではあるかなとは思うんですけどね。
安部:そういう現物を支給するといった「物の移動」の記録によって、疫病の記録が透けて見えるということですね。
菊池:そういうことですね。疫病がはやったさい、どういう政策を取ったかというところから見えてくることがあります。医療に関わった役所や役人の史料とかが残っていればいいんでしょうけれども、なかなか都合よくあるものじゃありません。お医者さんの診療記録だとか、全然ないわけじゃなく、もっと紹介されるといいんですけど。医学書とか本草書、知識がないとなかなか読むのは難しいですけど、そういったものを集めていけばいいかなと思うんですけど。もう1つの送り儀礼、疫病送りとか、農民の日記や年代記のようなものに書かれますが、菅江真澄のようにたまたま旅の人の紀行・随筆などに書き留められることがあったりしますね。いろいろと記録はされていますけど、ただ、いつ始まったのかとか、そういうことって、よくわからないんですよ。例えば獅子舞なんかにしても、疫病を祓うために始まったとか、いろいろなことが言われます。だけど、いつからかというのは、伝承だけだとなかなか難しいですよね。いわゆる民俗資料というものは。柳田国男以降の民俗調査で、聞き手によって記述されたもので、そうした民俗誌で知ることはできるんですけども、そこで聞き出された行事なり儀礼が、いつどのように始まったのか、江戸時代までさかのぼるのかというのは、なかなか難しいですよね。だから、たまたま菅江真澄のような人が書き留めてくれれば、確実にその時点にあったとわかるんです。時間軸で考えていくときに、日時をはっきりさせられないというところがあります。
安部:ありがとうございます。いろいろ複合的に見ていく必要があるんだなという気がしました。

間瀬:ところで皆さん、お時間ちょっとありましたら、別途菊池先生にご用意いただいた資料があるので、画面共有でお見せしたいと思いますが。(菊池註:ここで紹介した真澄の絵は、『菅江真澄民俗図絵』上中下巻のうち、上巻・下巻に掲載されています。岩崎美術社、1989年)
菊池:これはですね、信州の事例です。菅江真澄という人がスケッチした絵なんですね。これは何かというと、ここを見ますと、「しなのの国の山おく、おんたけのほとりにては、もがさやむことまれ也」と書いてあるんですけど、もがさの病にかかったとき、どうするかということが、その後に書いてあるんですね。見ていただくと、これ、近くの山ですね。ここに子どもが寝かされています。こっちにわら小屋みたいのがあります。疱瘡に罹った子どもを山にこうやって置いておくんですね。感染しないためにね。鍋だとかがあって、ここで煮炊きができるようになっています。誰かがここに来て、煮炊きをして、またすぐ帰るんでしょうね。病に罹った子どもたちを山に置いてくる。そして、他の村人たちが感染しないようにするという、慣習ですね。このような形、結構あるみたいですね。九州でもこういう史料を見たことがあります。これとは別の、皆さんに差し上げた論文ですが、アイヌの人たちの事例は、これと逆でした。病に罹った人はその家に置いておいて、元気な人は山へ逃げています。こっちの絵は逆で、罹った人を山に置いてくるんですね。多分こちらのほうが、立ち去ることより新しいんじゃないかなと思うんですけど。
間瀬:子どもを1人だけで置いておくんですか。
菊池:病に罹った人を、その村から隔絶したところに置いておくという。
間瀬:自分たちが病人を置いて逃げる、割と昔はそうだったんですか。
菊池:そうかなと思って。調べたら、八丈島とか、伊豆七島のほうにそういう習俗が残っているんですよ。こうした分布をどのように考えたらよいのか。それはともかく、これは信州の事例でした。
それから、全部、菅江真澄の絵ですけども。「その家の巡りに垣根して囲い、ゆかりありける人たりとも、かしら差し入ることはできない」と。疫病にかかった人の家ですよね。そこの周りを垣根で囲っちゃうんです。そして、囲いのなかに封じ込めるみたいな形になっているわけですよね。また、よそから来ても中には入れないという感じですね。疫病ではないんですけども、日本の習俗の中に、言ってみれば、こういう結界みたいなものをつくって、アジール、避難所と言うんですかね。中世の一揆の時に、逃散の作法というのがあるんです。普通、逃散って、山に逃げることを言うんですけども、実際には逃げないで、家の中にいるんです。垣根を回しておくと、領主であっても入れない。年貢の取り立てとかなんかにしても入り込めないんですね。これとは事情が違っていますが、疫病に罹った家に垣根を回す、そういう村の習俗を真澄が観察してスケッチしているんですね。
間瀬:これも真澄が描いたのですか。絵が上手なんですね。
菊池:なかなか普通の人、こんなのを絵に残さないでしょうからね。
間瀬:意識的に、描けるから描いているんでしょうね。
菊池:そういう習俗をちゃんと書き留めようという意識が働いているからでしょうね。それから、こっちのもう1つの真澄の絵です。これは東北地方の事例なんですけども、ちょうど門柱のところに、弓矢を持っていますね。
間瀬:上の右のところですね。
菊池:これ弓ですよね。こっちは剣ですかね。
間瀬:その左が剣。
菊池:剣を持っていますよね、入り口で。「入ってくるな」と言っているわけですよね。
間瀬:これ、人形ですよね。
菊池:人形ですね。
間瀬:怖い。これ。
菊池:人形ですね。下のほうは、紙に鬼みたいな絵を描いているんですかね。怖い顔で、入ってくるなというわけです。疫病神の侵入を遮るようなことが読み取れますよね。あと、こ軽部安右衛門とか、蒲野文右衛門だとか、効果のある人の名札を書いて入口に貼ったり、ぶら下げたりておくと、「入ってきちゃ駄目だよ」という目印になる。
間瀬:その効果がある人は、どういう基準で効果がある人になるんですか。
菊池:蒲野は熊本の細川越中守の家臣で、イザナギ・イザナミの血脈だということを言っていました。ほかに、一関で聞いた話なんですけども、建部清庵という杉田玄白とも交流したお医者さんですね。清庵の名前を門柱に貼っておくと、入ってこないとか。大船渡、気仙の方ですね、そういう話もあるみたいです。地元の知られたお医者さんの名前を貼っておく。「入っても無駄だよ」と。
間瀬:お医者様の名前を貼り付けると、それが実際、効果があるかないかということではなくて、そうすることで、すがりたいという気持ち、この感覚というのは、興味深いというか、面白いなと。
菊池:こうしておけば、疫病神がスッと入ってこない、みたいな。実際には、人間と人間の交流を遮断する、そういう機能はするんじゃないかなとは思いますけどね。
菊池:それから関東地方の農村で見られるのですけど。疫病神の謝り証文なんですね。詫び証文と言われているんですけども、疫病神が入ってはいけないところに心得違いして入ってしまった。主人にやっつけられたのでしょうか、一命だけは助けられたと。「もうこれから一切入りません」と詫びる。。
間瀬:疫病神は誰ですか。
菊池:どんなものか正体わからないけど、疫病神二人が仁賀保金七郎という人の屋敷に入ってしまった。これから金七郎の名前のあるところには仲間の疫病神も決してはいらないという謝り証文、これを見えるところに貼っておけばよかったのでしょうか、いろいろなものがありますよね。
間瀬:やはり皆さん、すがりたいというか。
菊池:そういうところ、あるんじゃないでしょうかね。ところで、全体として、疫病についての歴史研究は、皆さんそれほど関心を持ってこなかったんじゃないでしょうか。コレラなど、一部にとどまっていたんじゃないでしょうか。それは別にして、ふだん、歴史研究者が疫病について語るのは見たことがないです。スペイン風邪だって、そんなに研究があるわけじゃなさそうです。今になって、ワーワーと調べだして、昔の新聞を引っ張り出してきて、書いたりなんかしているような感じですけど。日本史研究の中で意識を共有してやられてきたような印象がありません。
間瀬:菊池先生は、疫病の研究をしてきたわけじゃないんだけど、飢饉との関わりで、どうしてもそこは視野に入り続けておられたわけですよね。これまで。
菊池:まあ、そういうことですね。飢饉のことをやる前だったら、別に疫病やってみようって思ったりしなかったでしょう。ところで、疫病が地球環境の問題とか、あるいは温暖化の問題とどう関わっているのか。この前、NHKの番組で京大総長の山極寿一さん、ゴリラの先生ですけど、人間が文明化したことによって、感染症をこの世の中に引き出してきた、温暖化で、未知のものをまたいっぱい引っ張り出してきかねない、といったような危惧をおっしゃっていましたね。これから、気候変動の問題だとか、疫病の問題だとか、飢饉の問題とか、そのあたりは、セーフティーネットみたいなものをどう考えていくのかということ。それが大きな問題として、全体としてやはり存在しているんじゃないか、そういう一環の中で考えていくことなんだろうと思うんですけどね。
間瀬:それをすくい上げようとすると、もう既に出版されている、みんなが知っているものを拾っていくだけでは駄目だというのが、重要なことなのかなという気もします。
菊池:大体、江戸時代の疫病というと疱瘡、麻疹、何といっても幕末のコレラでしょうか。研究もそうしたみんな知っているものに向かってしまいがちです。コレラ、対外的な恐怖などもまじって、社会史的には面白いというか、興味を引くような社会事象がいっぱいありますからね、それはまあ、いいだろうと思うんだけど。それよりここで扱ったような地味な、人の知らないものをいっぱい引き出して、示していくことが大事かなという感じはしますけど。
間瀬:では、皆さんに一言ずついただいて終わりにしましょうかね。じゃあ、栗原さん、最後、一言だけ。
栗原:本当に現代と重なることが多くありまして、この分野というのは、もっと研究を進めていかなくちゃいけない分野なのかなということをすごく感じました。
あと、やはり民間信仰という、現代でもまだ残っている部分がありますけれど、そこと、例えば、境目のところに大きなわらじを村はずれに置いたりするって、今でもときどきありますけれど、さっきの疱瘡わらじでしたっけ。
菊池:いもわらじ。(菊池註:いもとは疱瘡のこと、菅江真澄にも出てきます)
栗原:あれって、やはりそれと重なっているんだなということは思いました。そういうところから聞いていけたら面白いなと思いました。
間瀬:ありがとうございます。じゃあ、ヴァンサン・ブランクールさん、一言、どうぞ。
ヴァンサン・ブランクール:今日、すごく興味深い話と思いを聞かせていただいて、ありがとうございました。特に疫病神のお祓いとか、儀式についての話は、すごく面白かったです。
間瀬:じゃあ、國枝さん、一言、どうぞ。
國枝:ありがとうございました。皆さんおっしゃったように、今の時代とより重なり合うようなところもあって、個人的には、やはり病というのは、別にその人自体に原因があるわけではなく、誰でもかかり得ると。その意味で言うと、個人の責任ということよりも、やはり病にかかった人を社会的に、セーフティーネットという言葉が質疑でもでてきましたけれども、どういう形でセーフティーネットを張るのか。そういうところにこの問題の重要性があるのかなというふうなことを、今のこの社会情勢でも頭の中で考えていました。本当にありがとうございました。
間瀬:ありがとうございます。じゃあ、安部さん、一言お願いします。
安部:菊池先生も間瀬さんも、今日はありがとうございました。今日感じたのは、病を巡ってもそうですし、災害を巡ってもそうなんですけれども、その当時の人たちが感じたこととか、そこで気づいたこととかというのは、公な政府の記録には残っていなくて、そこから見ることはなかなか難しくて、やはり菅江真澄であるとか、あるいは文学の作品の中には、そういう人たちの声が反映しているんだろうなということを改めて感じて、最後には、記録と文学というのをこれから考えていくという視点は、結構いいところをいっているのかなと思いながら伺っていました。
菊池:災害文学というか、仮名草子の浅井了意だとか(菊池註:『むさしあぶみ』は明暦の大火を扱う)。地震とか火災とか、文学と災害というのは、深く結びついているんじゃないでしょうかね。それは江戸時代から始まった、あるいは、『方丈記』の世界もそうかもしれませんよ。そこにはいっぱい出てきますから。疫病とかも。
間瀬:ではNさんとSさん も一言ずつどうぞ。今日はZOOM開催ですが、お二人は会場にご足労くださったわけで、その場にいていただいた雰囲気のことでももちろんいいと思うんですけども。
:皆さんの質問を聞いていて、資料を理解してそことかかわりながらの質問をするというのが。私には、話を聞いているだけでは出てこなかった質問とかばかりだったので、菊池先生のお話もそうなんですけど、先生方の質問を聞いてより深められました。ありがとうございました。
:ニュースとかを見ていると、「いまだかつて日本人が体験したことのない災害」と言っていたんですけど、今回の話を聞いて、日本って、そういう疫病と一緒に闘ってきた、暮らしてきた生活を送ってきたんだなというのを今日改めて知ることができました。
間瀬:あ、それは今、ハッとしました。大事なことですね。
菊池:ああ、そうですね。
間瀬:ありがとうございます。学ぶべきことがあって、恐らくこの「声のつながり研究会」は、そういう声を本当に丹念に拾っていくということをやりたい人たちの居場所でありたいと思いました。今日はその研究会のラフな発表の枠組みとしての「声のあつまり」の初回で、これが、声のつながり研究会今年度の第一回企画ということでした。今中さん、途中までいてくださったですがネットの接続の問題で退出されましたが、ご出席くださいました。ありがとうございます。みなさんでは次回もどうぞ、よろしくお願いします。

収録場所:仙台市宮城野原 ギャラリーチフリグリ