「聞き書き」における声とことば 20211203放送(第9回)

【ことばにならない声/声にならないことば】

9回目の今回は、「聞き書き」という、声を文字として書き記す行為について考えてみたいと思います。聞き書きが成立するためには2人の人間が必要です。一人は語る人、この人は体験を持っています。しかし体験を持っていることと、その体験を語ることはまったく同時ではありません。そもそもおおかたの体験は語られずそのまま過去へと置き去られていくのではないでしょうか。もう一人は聞いてそれを書きとめる人です。その人は語る人と同じ体験をしているとは限りません。同じ体験をしていない人がそもそも話を聞いてそれを理解できるのでしょうか。それなのになぜ、他人の体験を聞き、それを書き記そうとするのでしょうか。ふたりの人間がいるからといって、そこに<語りー聞く>関係が生まれることは、そもそもがまれなことなのかもしれません。さらにたとえそこに声が聞きとれたとしても、それは語り手が語りたいと思って出した声なのか、聞き手が引き出したものなのか、引き出したときにそれに促されたのか、それとも引きづり出されたものなのか、その場に生まれるものの複雑さにどこまでも繊細であるほかはないのですが、そうしたことを考えていくと、言葉に慎重になるほかないのですが、そうした態度はかえって両者の間に溝を生んでしまうかもしれません。
今からひるがえって、私が「聞き書き」の作品を初めて読んだのは、スベトラーナ・アレクシェービッチの『チェルノブイリの祈り』だったと思います。2011年の福島原発の事故のあと、岩波現代文庫で再刊されたのを、学生から言われて手に取りました。原書はチェルノブイリの事故から10年経ってから書かれています。訳者の後書きによれば、アレクシェービッチは、緊急のレポートではなく、体験者のことばを借りて、いったい何が起きたのか解き明かそうとしてインタビューをしたのですが、それは個々の人間の記憶を残すためでした。
今述べたようにこの本が再刊されたのは福島原発の事故の後でしたが、アレクシェービッチの『チェルノブイリの祈り』のある一節をその論考の冒頭に引用することからはじめて、福島の問題に引き寄せた考察をしているのが、渡部純「<さけび>が<語り>へ変わるとき」です。ここで渡部が引用しているのは、「叫び」という一編です。その引用で、インタビューをされている医師は「ほっておいてほしい」と言い、なぜしつこく聞くのかと怒り、そして病気の子供たちを売り物にするようなことはしたくない、と語ることを拒否しています。そして自分たちはここで暮らす者であるといって、インタビュアーはただ外からわずか数日来た人間に過ぎないとはねつけます。福島在住の渡部は、まさにこれと同じことが福島でも起きていると驚いています。
渡部はこの論考で、経験者の言葉が、他者の言葉で意味づけられる、語りが簒奪されることを問題にしています。そしてこの齟齬から、自分の声にふたをしていくようになると渡部は述べています。
なぜ齟齬が起きてしまうのでしょうか。その齟齬が起きるとき、それはことばの<所有>が全面化してしまうからではないでしょうか。語り書きにおいて大切なのは、その二人のいる場所にことばが差し出されいるという意識、それは簡単に受け取ってはいけない、たとえ自分の手の上に乗せられたとしても、それはすぐに自分のものになるわけではない。むしろそれを手に受け取った自分自身が、他者によって存在を揺すぶられて、自分自身を所有できなくなってしまう。そうした自己反省からようやく、聞き書きが成立し始めるのではないでしょうか。聞き書きは、他者、自分、言葉をめぐって、それぞれの存在の根拠が揺らぎ、そして時には響き合う稀有な体験の証なのです。

スベトラーナ・アレクシェービッチの『チェルノブイリの祈り』(岩波現代文庫)
渡部純「<さけび>が<語り>へ変わるとき」(「文鯨」第二号所収)