「聞き書き」における声とことば~物語を支えること~ 20220107放送(第10回)

10回目の今回は、前回に続いて「聞き書き」という、声を文字として書き記す行為を取り上げたいと思います。前回も述べたように「聞き書きが成立するためには二人の人間が必要です。一人は語る人、この人は体験を持っています。しかし体験を持っていることと、語ることとは当然ながら次元は同じではありません。むしろ語られず、しまわれてしまう体験の方が多いのではないでしょうか。もう一人は聞いてそれを書きとめる人です。その人は語る人と同じ体験をしているとは限りません。同じ体験をしていない人がそもそも話を聞いてそれを理解できるのでしょうか。前回はこのような問題から出発しましたが、この体験と語りの問題を20世紀の早い時期にとりあげていたのがドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンです。彼はその短いエッセイ「物語作者」のなかで「経験の貧困化」という問題を取り上げています。もはや人と人の間で経験を交換することができず、そのため経験を伝えるための語りが廃れていってしまうのです。ベンヤミンがそれを指摘したのは第一次世界大戦の頃のことで、戦争を経験した兵士たちが、戦地からもどってきても「人に告げることのできるような経験などなかった」と述べています。つまりこの戦争はこれまでの認識がまったく通じない、皮肉な意味ですが、新しい世界を到来させたのでしょう。その世界ではもう今までの経験は役に立たないのです。
またこのエッセイでベンヤミンは、物語は名も知れぬ人々によって語り継がれてきたこと、またその物語は聞く人にとって助言や教訓など効用をもたらすものであったとも述べています。
語り継がれることがなくなっていくならば、どうするか。それはせめて書くことによって記録するほかはありません。その聞き書きの実践としてとても印象に残ったの本があります。小野和子さんの「あいたくてききたくて旅にでる」です。小野さんは岐阜の生まれですが、宮城県に移り住み、宮城を中心に東北の村々を訪ね歩き、民話を採取なさった方です。小野さんが聞き書きを始めたとき、それは「長年営まれてきた山蔭の小さな集落の暮らしが、東北新幹線開通のために、いまどのように変わろうとしているのか」と書かれているように、やはり時代に切れ目がひかれようとしていたのです。
「あいたくてききたくて旅にでる」は、まさに本のタイトルの通り、小野さんが各所をあるいて、「話をきかせてください」とお願いし、語ってくれた方の話を書きとめたものです。ここには語ってもらった話が収録されてているだけではありません。語り手と聞き手である小野さんとの出会い、そしてその二人の間に生まれる強い信頼関係が記されています。こうした強い信頼関係はどこから生まれてくるのか、それについて考えを述べているのは、東日本大震災の記録ドキュメンタリーの1本として、小野さんが顧問を努めている「みやぎ民話の学校」を撮影した濱口竜介です。濱口はその理由をこのように考えています。「小野さんはずっと自らの足で語り手のところにからだを運び、全身でたずねていたのではないか、小野さんが自分自身を相手に捧げるようにして「聞く」ことによって、語り手のそこに眠っていた民話はあんなにも生命力をもって語りー聞きの場にあらわれたのではないか」と。身を捧げて相手が聞いてくれるとき、語り手は、自らの心の中にしまわれていた物語を相手に差し出すのです。語り手の手を離れた物語は聞き手によって支えられ、物語は分ち持たれることによって、命をたもっていくのでしょう。その記録を読むとき、私たちもささやかに手を伸ばし、物語を支えることに参加するのです。

(慶應義塾大学 國枝孝弘)

===放送音源アーカイブはこちら===