ことばにできないような体験をしたひとが、それでもしかし、それを語る、ということ20211001放送(第7回)

今回はカロリン・エムケ『なぜならそれは言葉にできるから』を読みながら、言葉にできないような体験をした人が、それでもしかしその体験を語れるようになる可能性、そのための条件について考えてみたいと思います。
エムケは世界各地の紛争地を取材してきたドイツのフリー・ジャーナリストです。エムケは、その紛争地で、暴力にさらされた人々に出会ってきた経験をもとに、本書で、訳者あとがきのことばを借りるならば、「語ること」「聞くこと」「聞いたことを伝えること」について考察をしています。
具体的には、証言行為の意味、暴力をふるわれた人々が物に化してしまうこと、二重化ということばで語られる体験者の時間意識、そして語る場所における信頼関係、こうしたことが考察されます。
「苦しみ」と「暴力」は言葉にならない。エムケはその前提から出発しながらも、その理由をつきつめるとともに、他者との信頼関係のもとで、その困難さを克服できると考えています。
その際、エムケが批判するのは次の二つの点です。まず、目撃証言をすることは簡単だというテーゼです。特にデジタル時代をむかえて記録が可能になっている現代だからこそ言われるテーゼですが、それに対してエムケは疑念を差し向けます。もうひとつは「描写できないもの」「語りえないものがある」というテーゼです。これを批判している理由は後ほど述べます。
さて、体験者が自らの体験にどう向かい合うのか、それは個々人によって異なります。沈黙して語らない人がいます。自分の言葉で語っているようでいて、実はすでにメディアで使いまわされた言葉でしか語ってない人がいます。あるいは語っても、それは首尾一貫せず、混乱したままの場合があります。エムケはしかしだから理解不能とするのではなく、困難さのなかでそれでも言葉になっていく過程を丁寧に叙述します。
それはなぜか。言葉にする。それは意味を求めることです。この探求をしないことは、出来事そのものの理解を結局は放棄してしまうことになります。そして沈黙についても、その沈黙の理由を探っていくことは、やはり言語化の過程であるといえます。沈黙はないのではない。ただ声になっていない何かがあるのです。しかしその言語化には、体験者とその体験者と向かい合う者の間に信頼関係が必要です。私を言葉にしていいと相手に委ねる贈与的行為と、他者の言葉にならない声に耳をすましてそれを聞き取ろうとする倫理的行為です。
そして最後に、エムケは、体験はいつか語られるときがあるという信念をもっています。これは言い換えれば、人間の変化の可能性を信じているということでしょう。この変化こそ人間性の根拠ですし、人はつねに言葉を奪われたままなのではなく、きっといつかは「声の主体」になれる。その信頼は、体験者を被害者という受け身の存在としてだけ理解するのではなく、自らの中に主体となる根拠を秘めている存在なのだと理解することに基づいているのでしょう。

(慶応義塾大学 國枝孝弘)