ありのままに語ることと「盛る」ということ~物語、筋道、そして「毒」~  20221021 越門第2回

「話を盛る」という言葉があります。大げさに話す、話が面白くなるように誇張して語る、ぐらいの意味でしょうか。事実がそのまま述べられていないことを指摘する表現ですから、「盛っているね」と言われてそれが当たっているとしたら、あまり名誉なことではありません。でも、例えば、自分の失敗談を打ち解けた雰囲気のなかで語る、というような状況であれば、咎め立てられるようなことではないですし、聞いている相手を楽しませるためのサービスだと好意的に受け取られることもあります。まあ程度問題ですが。

けれどもその一方で、事実をありのままに述べることが求められる状況もあります。法廷での証言はその最たるものですが、そんな特殊な状況でなくとも、自分が体験した出来事を自発的に誰かに伝え知らせようとする場合、私たちは基本的に、事実をできるだけ正確に再現しようとします。またその話相手も、話された内容がありのままの事実だと信じて聞きます。これは、自分の体験ではなく過去に起こった出来事について、当事者から話を聞いたり資料で調べたりして語る場合も、同じです。私たちは、事実を、「盛ったり」歪めたりすることなく、言葉にしようと努めます。

さて、それが時間的にも空間的にも広がりをもった出来事だった場合、どうでしょう。事実をありのままに語るということが、実はとても難しいものだとわかります。例えば、ある街が自然災害に襲われ、その後、紆余曲折がありながらもなんとか復興を遂げた、という出来事を想像してみましょう。いくつかの断片的な事柄を時間順に並べれば、それでうまくいくでしょうか。それぞれの事柄は明白な客観的事実であるとしても、なぜその事柄を選んだのかということや、選んだ事柄だけで出来事の全体を満遍なく伝えることができるのか、大事な点が欠けていないか、といった疑問が浮かんできます。もちろん、出来事に関する事実をすべて記述し尽くすことなどできるはずはないのですが、それでも、記述する事柄を選び出すその基準は問われます。いやそれ以前に、事柄をただ羅列するだけでは、結局何が言いたいのか、そもそもなぜその出来事を伝え知らせようとするのか、その理由がわかりませんね。わざわざ伝えようとするからには理由があるはずで、その理由は、事柄の選択の仕方とも深いところでつながっているように思われます。

では、何がプラスされる必要があるのでしょうか。選び出した事柄が一つのまとまりをなし、それらが一本の筋道を描き出すこと。これだと私は考えます。時間の流れとともに次々と起こる事柄が互いに結びつき、そこにある意味が浮かび上がる時にはじめて、断片的なエピソードの寄せ集めではない、一つの完結した出来事が姿を現します。だから、出来事の意味が明らかになるように事柄を配列し、言葉を付け足すことが、語り手の仕事となります。つまり、諸々の事柄を全体としての出来事の中にしかるべく位置づける「ストーリー」あるいは「物語」が必要なのですね。

今回ご紹介する、ジョナサン・ゴットシャル著『ストーリーが世界を滅ぼす』は、そうした物語の功罪を論じた本です。功罪と言っても、そのタイトルが示すとおり、ほとんどの部分は「罪」、ダークサイドの説明に当てられています。著者によれば、物語は、ステレオタイプ化された構造にしたがって意味を作り出すよう機能し、人をなびかせる力を持っています。それは、フィクション作品のみならず、ジャーナリズムや歴史記述においてすら働いており、社会に分断をもたらす一因となっています。やっかいなのは、世界について理解し、また理解したことを説明するという日常的な営みと物語が切り離せない、ということです。だから著者は物語を「必要不可欠な毒」と呼びます。つまり、私たちは話を盛ることから逃れられないわけです。

次回は、この本の内容に触れながら、物語の、薬でもあり毒でもあるという二面性について考えていきましょう。

紹介した文献 ジョナサン・ゴットシャル『ストーリーが世界を滅ぼす  物語があなたの脳を操作する』(東洋経済新報社)

(明治大学准教授 越門勝彦)

「声のつながり大学」内「声のコラム」 第36回 2022年10月21日放送