オーレリー・フィリぺッティ(Aurélie Filippetti) 『労働者階級の最後の日々』(Les Derniers Jours de la classe ouvrière)と炭鉱労働者の声20230707(第25回)

「ことばにならない声/声にならないことば」。今回は、オーレリー・フィリぺッティの『労働者階級の最後の日々』を取り上げて、その作品で描かれる戦後フランスの労働者の声について考えます。
フィリぺッティは1973年生まれの政治家であり、また小説家でもあります。社会党フランソワ・オランドが大統領の時代に、文化大臣をつとめたこともありました。彼女が生まれたのはフランス北東部のロレーヌ地方です。この地方は石炭産業で有名であり、特に戦後の労働力確保のために、多くの移民がこの地方にやってきて、炭鉱で働いていました。彼女の父親もイタリア系移民で、炭鉱夫であり、後に共産党の市長になった人物です。
『労働者階級の最後の日々』は2003年に発表された作品です。冒頭には「小説」とうたれていますが、主題は戦後の石炭産業と繁栄と衰退であり、また同時に自分の父親の人生についても語られています。その意味で戦後のフランスの産業史をたどるルポルタージュとも言えますし、自伝的色彩の強い家族の物語とも言えそうです。
しかし実際にこの作品を読み進めると、単純な分類ができないことに気づきます。新書版で160ページのこの作品は、2ページから3ページからなる短い多くの章から成り立っています。そして章と章の間には直線的な筋の進行はありません。炭鉱を舞台にした、資本家たちの収奪の実態や労働運動という社会的側面、第二次世界大戦でのドイツ占領期のレジスタンス運動、68年当時の学生運動と労働運動の共闘の失敗といった歴史的側面、そして家族をめぐる物語があります。家族の話の中には、労働者の家庭からパリの大学へ進学する著者自身への言及もあります。時間順序はあるかもしれませんが、あくまでも作品構成は断章が並べられているだけです。
またこの作品の文体も独特です。動詞がなく単語が羅列されていたり、前後の文脈が取りにくく、決して読みやすくはありません。好意的な解釈をするならば、こうした構成上、文体上の読みにくさは、作品世界の安易な理解を拒むためかもしれません。
この作品が歴史叙述やルポルタージュとは呼びにくいのは、このような複雑な構成があるためです。また描写はあるものの分析や考察はほとんどありません。
その上でこの作品を「小説」と呼びうる一番の根拠は何か。それは当事者たちの声が直接書かれていることにあります。これらは著者が子どもの時に直接聞いた声の残響かもしれません。あるいは戦時中の人々の声は、著者が当然ながら想像して復元したものでしょう。この想像という点に小説性を認めることができます。
ただし、この作品には、労働者たちの存在に対する、悲壮感や同情のようなニュアンスは希薄です。もちろん炭鉱労働者たちは歴史のなかで消えていかざるをえなかった存在です。衰退と消滅は、時に私たちに愛惜の感情を沸き起こさせたりもします。しかしこの作品にはそうした感傷がありません。そしてその分、ここに描かれる労働者たちは、作品の中で自律性を確保しているように思われます。自分の父親を書くということは、そこに十分な個人的な思いがあったはずです。しかし著者は、そうした思いをが表出することを禁欲的に押し留めているかのようです。それは、私を通した父親の像を描くのではなく、父親の声そのものを蘇らせたいという作者の願いであったのかもしれません。作者の存在は消え、消えていこうとしていた歴史の中の小さな声は作品の上に響いてくる。それはまさに文学的な営為であったと言えるのではないでしょうか。

参考文献
Aurélie Filippetti, Les Derniers Jours de la classe ouvrière, Stock, 2003 (Livre de poche, 2005)

慶應義塾大学 國枝孝弘

声のつながり大学 2023年7月7日(金)放送アーカイブ