今回はこのことばと体験の問題について、フランスで15年前に起きた剽窃騒動を取り上げて、言葉の所有、声の所有ということについて考えてみたいと思います。
人生のなかで強い喪失の体験があったとき、私たちは言葉を失います。あまりの出来事の大きさに、失意におそわれ、何も理解することができず、ことばのない苦しみの世界をさまよいます。それでもしかしその体験をことばにしたとき、本人にとってそのことばはかけがえのない大切なものとなるでしょう。
今回取り上げるカミーユ・ロランスは、フランスの現代小説家です。彼女のPhilippeという短い小説は、男の赤ちゃんを失った体験をもとに綴った作品です。世の中に発表された、小説家の作品とはいえ、喪失体験を実際にもつロランスにとって、そこに綴られたことばはその体験と強く結びついたことばです。この小説が発表されてから12年後、同じくフランスの小説家、マリー・ダリュセックが「トムは死んだ」という小説を発表します。この作品も男の子を失った母親を主人公にしています。この小説を知ったロランスは、「マリー・ダリュセックあるいはカッコウ症候群」という文章を発表して、この小説が剽窃であることを激しく非難します。カッコウは他の鳥の巣で自分の卵を育てさせる習性で知られていますが、要は人の大切なテーマを横取りして、自分の小説を書いたダリュセックへの非難を込めています。ロランスは、具体的な文章の剽窃があるわけではない、だが全体を読むと、自分の個人的体験、その体験からでた言葉にインスピレーションを受けて、ダリュセックは作品を書いており、これは心理的剽窃だと訴えます。これに対してダリュセックは、そもそも「剽窃とは何か」という問いを立て、「警察調書」という剽窃の文学理論ともいえる作品を発表します。ここでダリュセックは古今東西の作品、作家のことばをひきながら、人生と書くことの権利は無関係であり、語り方を模索するのが作家であり、代わりに語ることのできる想像的証言ができるのが作家であると述べています。フランスではおおむねダリュセックに賛同する人たちが多かったようです。
ただ、言葉を持つ者が語ることが「できる」として、では「できた」結果、何が生まれたのでしょうか。ロランスの文章は、ダリュセックにくらべれば「おとなげない」かもしれませんが、重要なことを述べていると思います。一つは、ありのままの物語より想像力の方が好まれることへの疑問です。私たちが文学に求めるのは想像力豊かな世界だけでしょうか。文学には、ことばを研ぎ澄ますことによって、当事者の声そのものが届けられる、そうした可能性がないでしょうか。ロランスの作品は生の声に満ちているとは言えませんが、ときにその声には重みがあります。それは小説は独自の世界を作るだけではなく、この世界とつながり時にこの世界を穿つためのことばを模索する、そうした営みがあるように思います。
ではことばとはなにか。二つめに「亡くなった子ども」という事実自体は、言葉と同じく、だれか個人が所有するものではない、このようにロランスはダリュセックの立場を指摘していますが、その上で、ロランスは、言葉と現実がどのように接触するのか、現実の中に言葉という錨をどのように落とすことができるのか、それを問わなくてはならないと言っています。言葉と現実の接触面を考えることにどれほど体験は重要なのか。Gefenという研究者は、ダリュセックの立場ならば「フィクションは、同一化と共感の原則によってあらゆる主題に取り組むことができる」と述べています。それに対して、ロランスは、トラウマのフィクション化では、悲壮感漂うフレーズ、悲痛さを掻き立てるディテール、必ず入れるべき場面のような定型化が行われてしまうと述べています。フィクションがドラマとならず、この世界を開示する。そのときは体験の強度が必要なのではないか。この考え方は、体験の外にいるものを想定してしまうという意味で、断絶を作り出してしまう可能性もありますが、ことばの困難さにどこまでも意識的であるためには、どこまでもついてくる問題である、そうロランスの文章は訴えているように私には思えます。
(慶應義塾大学教授 國枝孝弘)