クロエ・コルマン『姉妹のように』における証言と文学の関係 20221202(第20回)

 

「ことばにならない声/声にならないことば」、今回は、今年フランスで出版された、クロエ・コルマンの小説『姉妹のように』を取り上げ、作品世界における証言者の声の位置付けの問題をさぐっていきたいと思います。
昨今フランスでは、戦争を体験した家族について、体験者ではない作家が、「一人称で語る」作品が多く出版されています。このコーナーでもすでに、何人かの作家を取り上げてきました。第6回では、家族の歴史を叙述した歴史家、社会学者の著作を紹介しました。第13回ではフランソワ・ヌーデルマンの「カディヤックの子どもたち」を紹介しました。これは、1958年生まれの著者が、フランスへ移民してきた祖父、そして父について一人称で語った作品でした。
今回紹介するクロエ・コルマンは、これまで紹介してきた著者たちよりもさらに若く、1983年生まれです。彼女がこの作品で語るのは、父親の従姉妹にあたる三姉妹です。フランスに移民してきたユダヤ系の家庭に育った彼女たちは、戦争当時、まだ5歳から12歳の幼い子供でした。しかし、両親が先に連行され、その後子供たちだけで強制的に移送され、命を落とします。そのコルマン家の隣には、やはりユダヤ系の移民であったカミンスキー一家がいました。そしてその家にもほぼ同じ年齢の女の子が4人いました。そのうちの3姉妹が、コルマン家の女の子たちと一緒に移送されました。ただカミンスキーの姉妹たちは、脱走に成功し、戦争を生き延びます。
クロエ・コルマンは、この姉妹たちが今も存命であることを知り、主に長女のアンドレに当時のことを語ってもらうことで、父のいとこたちがどんな子供であったのか、当時どんな暮らしをしていたのか、連行後どのような足跡をたどったのかを明らかにしていきます。
同時にコルマンは、収容所センターで資料を集め、また当時の場所を訪れます。それによって、この作品は、コルマン家の姉妹たちだけではなく、当時親から引き離され、アウシュビッツへ送られていった無数のこどもたちの姿をうかび上がらせていきます。
しかしこの作品の発表後、証言をしたカミンスキー姉妹たちから強い怒りの声が上がります。この一件を取材したフランスのラジオ局France Interの記事によれば、その怒りの理由は、コルマン家の姉妹たちについて証言したにもかかわらず、自分たちの家族のプライベートな話も使われてしまっていること、その体験談が小説の中に含まれたことによって、自分たちの証言自体にも想像的な部分が含まれているのではないかと、証言の真実性に疑問がもたれてしまう可能性が生まれたこと、さらには、証言をした姉妹の現在の様子までもが書かれてしまっていること、この3点にあるといえます。
それに対してコルマンは、彼女たち自身の体験を書かずして、父の従姉妹たちを書くことは、あたかも一緒におさまっている写真をカッターで半分に切ってしまうようなものだと語っています。また、語ったこととは異なる形で物語を書いたことには留意しており、そのために実名ではなく、仮名を使ったとも述べています。そして姉妹の現在、特にその老いと衰弱に言及したのは、証人もまたいなくなっていくこと、この事実を伝えることも作家の責任であると述べています。
ここからは2つのことが言えると思います。まずは体験者の声だけをとどめるのは難しいということ。たとえ他者について語ったとしても、その語りの対象と、語り手自身の体験を切り離して書くことはきわめて難しいでしょう。他者の声は、その体験者の声を通して響いてくるのであり、その声の多声性を書くことは、コルマンにとって必然であったと思います。さらには同じような運命をたどった子供たちの無言の声も重ね合わせられます。そしてその声を拾い上げるコルマン自身の声も反響します。小説とは、こうした多層的な声が響く場所なのではないでしょうか。だからこそ文学は個別の体験から普遍性を目指すのではないでしょうか。
もうひとつは、コルマンが証言者がいなくなることも伝えたかったと言っていますが、そこにはもっと衝動的な理由もあったのではないかという気がします。それは体験者の語りの内容を作品にうつすだけでは、血のかよわない説明に終始してしまう。証言者は語るためだけに目の前にいるのではない。むしろその声を聞いて、その人の存在そのものを、その人の今の悲しみをも受け取っているのです。その証言者の今ある姿を言葉にとどめる義務を作家は感じたのではないかという気がするのです。すなわちその瞬間作家は、永遠に消えてしまうものへの切迫感を本能的にいだいて、記録をする人になったのです。

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(慶應義塾大学教授 國枝孝弘)

「声のつながり大学」2022年12月2日放送