ケリー・ライカート作品と女性の声 20220204放送(第11回)

今回はアメリカの映画監督ケリー・ライカートの作品を取り上げ、作品がすくいあげる声の存在について考えたいと思います。ライカートは1964年アメリカ・フロリダの生まれで、そのミニマムな構成に特徴があります。大きな盛り上がりはなく、セリフもひかえめで、どの作品も2時間をこえません。いわゆるインディペンデントな作風ですが、評価は高く、最近特集上映があり、四作品がいくつかの映画館で上映されました。1994年の「リバー・オブ・グラス」、2006年の「オールド・ジョイ」、2008 『ウェンディ&ルーシー』WENDY and LUCY、2010 『ミークス・カットオフ』MEEK’S CUTOFFです。長編第一作の「リバー・オブ・グラス」では、主人公のナレーションが入り、人物像が伝わります。しかし、この作品は例外的で、他の作品では私たちは、物語の背景、状況説明はほぼ与えられません。

特に今回とりあげたいのはまずは『ウェンディ&ルーシー』です。主人公は88年のホンダ・アコードでアラスカへ向い、仕事を探そうとしている若い女性ウェンディと彼女の犬ルーシーです。冒頭犬を散歩させているウェンディの鼻歌から映画は始まります。そこには歌詞はありません。メロディーだけが口ずさまれるのですが、それは言葉で説明されることのないこの映画を象徴しているようです。ウェンディには次々小さな不幸に見舞われます。車が故障し、お金がないので犬の餌をスーパーマーケットで万引きしようとしてつかまり、警察に連行されている間に、スーパーにつないでおいた犬はいなくなり、車を修理に出している間野宿をしている間に怖い目にあったり、と貧困であることはそれだけですでに救いがないかのようです。しかしウェンディはほとんどその感情を言葉にすることがありません。それは自らの状況を表現するすべを持っていないのかもしれません。貧困は物理的な欠乏だけではなく、精神的にも欠乏に追い込んでいくのです。それでもしかし、最後の場面では、ウェンディは自分の犬にある約束をします。それは映画を見る楽しみを奪ってしまうのでここでは触れないでおきましょう。

いずれにせよ、そこで誓われたことが、本当に未来において起きるのかどうか、それは語られていません。ウェンディが置かれた状況から考えれば、希望はないのかもしれません。しかし絶望があるわけでもありません。ケリー・ライカートはこの映画で、白人女性の貧困を描くことで、どこにも届こうとしない彼女たちの声をひろいあげようとしました。ただそれは声高な主張ではなりません。また希望や絶望という物語での脚色された明確な声でもありません。ただそれは、主人公の微かなまなざしさや、それでも彼女に声をかけてくれる実直な人々との間に生まれる交流から、私たちにひっそりと伝えられます。そこにこの映画の素晴らしさがあります。それは『ミークス・カットオフ』でもかわりません。この映画は19世紀半ばの西部開拓者の旅をモチーフにしていますが、映画の中心は夫たちについていた妻たちです。開拓史というアメリカの大きなれ歴史においても、そして20世紀になって盛んになった「西部劇」での表象でも、彼女たちの声が聞こえることはありませんでした。この映画は初めて声なき女性たちをカメラにおさめたのです。しかしそこには叙情や劇的な場面、そしてクライマックスもありません。しかしそれこそが彼女たちがアメリカ西部で体験した生の実相だったのではないでしょうか。

(慶應義塾大学 國枝孝弘)

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