今回はフランスの2つのドキュメンタリー作品を取り上げます。ニコラ・フィリベール監督『すべての些細な事柄』(1997)とサンドリーヌ・ボネール監督『彼女の名はサビーヌ』(2007年)です。この2作品は、精神障がいをかかえた人々を映しています。そうした人々とのことばによるコミュニケーションには難しい部分が確かにあるように思われます。しかしこの2作品では、人と人の関係がしっかりと存在していることが画面上に描かれています。今回はその人間関係のありかたを、非対称性と対等性ということばから明らかにしたいと思います。
『すべての些細な事柄』はフランスのラボルド診療所で年に1回行われる、患者と医師、看護師らすべてのスタッフが参加する演劇上演の準備から本番までを映していきます。この映画にはナレーションが一切ないこともあり、見ている私たちは、誰が患者で、誰がスタッフなのかわからなくなっていきます。とはいえ、それらの属性が完全に消えてしまうということはありません。「私たちと変わりない」ということはあまりにも安易です。ただ、それらの属性は依然存在していても、それぞれの人間にとっての一面に過ぎず、それが全面/前面からしりぞいていくのです。そして人と人が、ある一面だけではなく、あくまでも個別具体的にそのつど人間関係を作っていることが実感として伝わってきます。
それがはっきりとわかるのは、たとえば患者とスタッフとの会話の場面です。スタッフの話し方はあくまで丁寧な言葉遣いであり、自分の意思を相手にやはり丁寧に伝えようとしています。ある患者がスタッフの腕を強く握ったときにも、その手を振り払うのでもなく、ゆっくりとはっきりした声で「手を離してください」と言います。患者は手を離します。ことばを介したコミュニケーションが行われているのです。もちろんこれは相互的というよりも一方的、非対称的ではあるでしょう。しかし相手への言葉の発するその態度から、あくまでも相手を自分と対等の関係とみなしていることがはっきりとわかるのです。
『彼女の名はサビーヌ』はフランスの有名女優サンドリーヌ・ボネールが自分の自閉症の妹サビーヌを映した作品です。この映画の中でサビーヌはサンドリーヌに対して、ひとつの問いかけを絶えず繰り返します。それは「明日、会いにきてくれる?」という質問です。それに対してサンドリーヌは丁寧に答えることもあれば、うんざりとして怒りをあらわにすることもあります。やはりこの作品でも二人の関係は相互的とは呼びにくいでしょう。
それでもサンドリーヌは、たとえばサビーヌがピアノを弾いている場面や、サビーヌがかつてサンドリーヌと一緒にアメリカ旅行をしたときのビデオを見ていて泣き出す場面を映しています。こうしたサビーヌの姿はまさに彼女の多面性の証です。そうした場面はサンドリーヌにとって、サビーヌという人間の美質に触れることを意味しています。ひとりのかけがえのない人間に触れていることを実感するのです。そしてこの実感こそサンドリーヌにとってのひとつの大きな喜びです。コミュニケーションはあくまで非対称的です。それでもサンドリーヌはサビーヌを映しながら、彼女を愛していることを、そして愛することのできる自分を発見するのです。こうした愛を介在した二人の関係は、根本的に対等なのだと言ってもよいのではないでしょうか。
(慶應義塾大学教授 國枝孝弘)
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