サルトルと文学、参加の文学から倫理的証言へ20220701(第15回)

今回は、サルトルのアンガージュマン、すなわち社会参加の文学の考え方から出発し、不条理な世界、まさに言葉を失う事態に直面したときに、それでも文学は言葉を生み出しうるのか、その言葉の条件について考えてみたいと思います。
1948年サルトルは『文学とは何か』を発表します。ここで「アンガージュマンの文学」が提唱されています。人間は状況の中にいる。私たちはその状況を見ることができないが、ただし、状況を変えることで初めて、自分たちの状況を意識することができる(p. 29.)。作家がアンガジェ、参加するとは、状況の中に参加し、その状況を変えていくことです。それから16年後、1964年サルトルは討論会「文学は何ができるか」に参加します。そして64年の討論から50年後の2014年、フランスの文芸誌「新フランス評論」は、「文学は(いまなお)何ができるか」という特集を組みます。この特集を組んだのは、この文芸誌の編集長であったフィリップ・フォレストです。フォレストは文学研究の研究者ですが、娘を亡くした本人の体験をもとにした小説『永遠の子供』を書いて以降、何冊もの小説を発表している作家でもあります。フォレストは、その号の巻頭言で、またその巻頭言をベースに日本で行った「文学は(いまなお)何ができるか」という講演で、サルトルの文学への考えをたどります。64年の討論会でのサルトルの立場について、フォレストは「芸術による救済という英雄信仰的な文学観を否定した」と述べます。つまり、芸術は英雄のように危機に陥った者を救うことができるというのは信仰に過ぎないと言っているわけです。ここに表明される文学の無力は、まさにアンガージュマンの否定であり、サルトルによる自己批判です。64年時のサルトルの考え方を象徴する発言は、「死にゆく一人の子供を前にして、『嘔吐』は重みをなさない」というものです。『嘔吐』はサルトル本人の作品ですが、この発言はまさに文学の無力を物語るものです。実はサルトル自身がこの発言をしたのは、この討論会ではなく、これより8ヶ月前のインタビューでした。他の参加者がこのときの発言を討論の場で取り上げたのです。
それはさておき、ここで注目したいのは、文学の無力を語るこの言葉にこそ、文学の実践がありうるとするフォレストの解釈です。先ほど述べたように、フォレストは自身の子供を亡くしていますが、「子供の死」こそ、スキャンダル(憤りを覚えざるを得ない事態)、現実のうちに存在する本質的な無意味です。では文学は何ができるのか、文学はこの無意味さの証言だとフォレストはいうのです。
実はこの無意味な事態は、すなわち理不尽な喪失体験は、一見言葉にできないようでいて、実は多くの言葉を引き寄せているのではないでしょうか。喪失という言葉になりえない事態でありながら、実は悲しみや同情の言葉で溢れ、あたかも、文学がその事態をすくいうる言葉を所有しているかのように錯覚させるのです。それに対してフォレストは、そうしたことばは「意味を欠いたままであるべきものに意味を付与しようとする」語りであり、そうした語り方に対抗し、無意味を証し出さねばならないと言っています。もしそこに文学が生まれるとすれば、それは不条理を解決する言葉ではありません。むしろなぜ答えがないのか、というなぜを無限に問い続ける苦しみのことばなのです。それこそが倫理的な証言と言える態度です。フォレストはサルトルの態度にこの倫理性を読みとったのです。

(慶應義塾大学教授 國枝孝弘)

「声のつながり大学」2022年7月1日放送