フランス21世紀の歴史叙述における一人称の語り~沈黙のさざめきに耳を傾けるとき 20210903放送(第6回)

 一人称で語られる歴史。そうした叙述が少なくとも現代フランスで増えています。歴史といえば、主観を交えず3人称で語られてこそ歴史的事実が明らかになるのではないでしょうか。それとも1人称で語ることによって、私を通してしか見えない事象があるからでしょうか。
1人称で書かれているといってもひとつには歴史家自身が自分のことを語る歴史家の自伝の場合もあれば、私という人称を使いながらも、私を中心とした過去ではなく、私の知らない、しかし私へと通じる過去、すなわち、両親、祖父母、あるいはもっと前の家系を語ることで、過去を復元していくテキストもあります。ここで扱いたいのは後者のテキストです。なぜならば、この試みには、両親やそれよりももっと前の私の知らない、しかし私の存在のそもそもの根拠である祖先の、ことばにならない声/声にならないことばが響いていると思われるからです。
この歴史叙述における1人称の使用を外観したのが、イタリア出身で、フランスで学位を取得した歴史家Enzo Traversoのpassés singuliers「個別の過去」です。トラヴェルソ自身は、この1人称語りにかなり慎重な姿勢を見せていますが、それでも21世紀に入ってからの、フランスの歴史学における「私」の問題は、ひとつの潮流となっています。
今回はそのなかでトラヴェルソが歴史社会学的なアプローチとして扱っている3人の研究者を紹介したいと思います。1947年生まれのNicole Lapierre、55年生まれのNathalie Heinich、73年生まれのIvan Jablonkaです。この3人に共通するのはみな出自がユダヤ系であり、20世紀初頭から戦前、戦中にかけてフランスに移民してきた人々の子孫であることです。3人ともが戦後生まれで、自らのユダヤ性はそれほど自明ではなくなっている世代に属しています。
そして3人ともが、自らの少し前の戦前、戦争における祖父母、そう祖父母たちの人生を探りながら、当時を復元しています。その意味で、この3人が私で語るのは、私の物語ではなく、私へと通じる、2世代、3世代前の一族を語るためであるのです。
そしてそれ以上に着目すべきは、彼らは歴史家である以上、徹底的に資料にあたり、インタビューを丁寧にすることで、証言を尊重していることです。しかしそれでもなお、今はなき人々が何を当時考えていたか、その気持ちは推し量るしかありません。そして私で語ることの意味は実はここにかかっています。すなわち最終的に推し量るのは今を生きる私であるということ。綿密な資料構成に基づく叙述をした上で、彼らは、今は亡き人々の心の中を、決して知り得なくとも、推し量りつづけようとするのです。それは、ことばになされなかったこと、彼らが決して口にしなかったことも、なかったことではなく、彼らが存在したことの証だからです。沈黙のさざめきに耳を傾けるとき、歴史家は文学者へと接近しているのかもしれません。

(慶応義塾大学 國枝孝弘)