ミハイル・バフチンにおける「声」~桑野隆『生きることとしてのダイアローグ』20220805(第16回)

今回は、ロシアの思想家ミハイル・バフチンにおける「声」の意味について、去年、2021年9月に出版された桑野隆『生きることとしてのダイアローグ』(岩波書店)を読みながら考えたいと思います。
ミハイル・バフチンの思想としては、ポリフォニーという言葉が有名です。ポリフォニーとは多声性、多くの声があることです。私自身、このポリフォニーについては、小説家が、自身の声で作品全体をあまねく支配しているモノローグ小説に対して、登場人物たちがそれぞれ独立しているかのように、それぞれの考え=声を響かせている、小説家もあたかもそのうちの一人に過ぎず、作品が単色のイデオロギーに染められてはいない、そうした小説の構成をポリフォニーと理解していました。
『生きることとしてのダイアローグ』でも、冒頭で、バフチンが声という用語をよく使うことが指摘されています。その上で、桑野は「声は人格であり、対話的関係の比喩にもなっている」と述べています。つまり文字通りの声という意味で使われることもあれば、比喩として使われることもあり、バフチンの「声」はきわめて多義的です。
ではポリフォニーの概念における声とはどのような特質を持っているのでしょうか。まずポリフォニーといえば、声の複数性のことだと思ってしまいますが、実はそれはポリフォニーの前段階です(p. 30)。単に声が複数というだけでは、それらの声は、「独立した」意識というだけにとどまっており、異なる声どうしの対話がまだないからです。そして対話的な関係がなければ、それは「モノローグ小説」なのです(p. 33.)。
モノローグとは独り言ということではありません。バフチンの場合には常に他者が前提となっていますが、モノローグとは他者への「一方通行」という意味で使われています。この場合、他者は客体化され、モノのように扱われてしまっています。あくまでも他者として他者に自分が向かいあうためには、バフチンは「気をゆるめることなく結びつきながらも、距離を保とうとする」(p.40)ことが必要であるといいます。さらに、声が多数あるからといっても相対主義は、ポリフォニーではないとも言っています。なぜならばそこには対話がないからです。それぞれの声が勝手にこだまするだけで、お互いに変容は生まれないからです。
対話においては、共鳴もあれば不協和もある。そのあらわれはどのようであっても、ここには応答があります。これがバフチンの言う能動的な理解なのです。そのような対話は確かに難しいでしょう。
しかし私たちは他者との関係において、同情や共感をいだくことは実は簡単です。他者を自己と同じものと扱って、同一化させているからです。これは自分にとどまることであり、それほどたやすいことはありません。しかしもはやそこには他者はいません。桑野は、バフチンを引用しつつ、「一体化するのではなく、<融合することのない複数性>が重要である」といいます。この距離こそが、他者を認識し、それによって自己を反省的に捉える契機となります。対話における他者の声とは、自分がいかに外部にいるかということを認識し、自分自身をも他者として認めることによって、自己変容に契機となりうるのです。ここに対話の真の意味があります。

(慶應義塾大学教授 國枝孝弘)

「声のつながり大学」2022年8月5日放送