他者に代わって語ること  20231117越門第2回

今回は、誰か他の人に代わってある出来事について語るということ、広い意味での「証言」について考えてみようと思います。
次のようなシチュエーションを想像してください。
おじが亡くなりました。彼の葬儀が終わり、親族が集まって食事をしています。この叔父はとにかくみんなから嫌われていました。偏屈で、意地悪で、乱暴で、そのため身内だけでなく近所の人も、彼と関わり合いになろうとしませんでした。そういうわけで、彼がいなくなってみんなせいせいしているようです。それでも故人についての思い出話がポツポツと出始めます。(この辺りは黒沢明監督の名作『生きる』の冒頭シーンを思い描いてください。)最初は遠慮がちに、しかしそのうちいきいきと、彼がいかにひどい人物であったかが、様々なエピソードとともに語られていきます。亡くなった人のことを悪くいうのは控えるべきなんだろうけど、まああれほど救いようのない人はいないよ。話がそこに落ち着きそうになった時、黙っていた私が思わず口を開きます。「でもおじさんは、僕が小さい頃、怪我をして泣いていると、『大丈夫か』と声をかけて絆創膏を貼ってくれたことがあったよ」。
その場が静まり返ります。しばらくして呟きが漏れ聞こえてきます。「ほんまかいな」、「それはないやろ」、「かっちゃん、記憶違いとちゃうの」・・・。
内容はともかくみんな故人を偲んでいたわけで、そういう場の雰囲気、ヴァイブスを壊してしまったことを私は少しだけ後悔します。

さて、このシチュエーションで(フィクションです、念のため)、皆さんなら、自分だけが知っているであろう「実はおじさんいい人エピソード」を語るでしょうか。
あえて語るとしたら、それはなぜでしょうか。おそらく、そこに居合わせた人たちが気づいていない叔父の優しい一面を事実として知ってもらうためですね。でも、その記憶は正確ではないかもしれません。過度に美化されていたり、あるいはそもそも別の人物と取り違えていたりする可能性があります。仮に記憶が正確であったとして、そのエピソードは叔父の本当の姿を表していると断言できるでしょうか。みんなのおじに関する思い出が全て、彼の偏屈さや乱暴さを示すものだとしたら、たった一つの出来事だけでは彼が実はいい人だと証明することはできないようにも思われます。
さらに考えてみる余地があるのは、誰が、誰のために語るのか、という点です。私が、叔父のために語るのだ、とひとまず言えそうです。語るも語らないも私の一存次第、つまり私にイニシアチブがあって、他方、叔父はというと、死者ですから、もはや自身のために語ることができず、私に名誉回復してもらうのをただ待ち受けるしかない存在、ということです。私が語る主体で、叔父が語られる対象、というわけです。
でも、本当に私と叔父の関係はそんなに単純でしょうか。私は叔父のことが好きなわけではないし、特別な恩義があるわけでもない。けれども、あの時の叔父の「大丈夫か」という言葉、表情、手の温もりが、私をしてこのエピソードを語らざるを得なくさせる。今、この場で、この真実を語らないことはできない、と私に思わせるのです。言い換えれば、私は死者たる叔父によって、語ることを託され、語る責任を負わされている、と感じてしまうわけです。この時私は語るか語らないか、おじの名誉回復をすべきか否かを全面的に自分の意志で決定できる主体ではなくなっています。かろうじて、託された責任を引き受けるかどうかというところにイニシアチブを発揮できるだけの主体となっています。
ただし、ここでいう責任は、かつての出来事を紹介するだけで果たされるものではないでしょう。語った内容が真実だと証明することも求められます。その証明は、今度は、その場に居合わせた人々のために、証言を聞いた人々に向けてなされます。そしてこの場合も、私には語る主体としての全面的なイニシアチブはありません。というのは、証明として何かを語るかどうか、また何を語るか、ということを私が決められるわけではなく、私の証言が信じられず疑いを抱く他者がいて初めて、その他者に向けて証明する責務が生じるからです。私は他者からの証明の求めに応じるという責任を負うことになるわけです。
このように、証言の特徴というのは、徹頭徹尾、他者への責任に貫かれた言語行為だという点にあるようです。つまり、他者に代わって・他者に託されて語り始め、いったん語ったなら、今度は別の他者の求めに応じて語りの真実を証明しなければならないということです。
これまでこのコラムで紹介したポール・リクールは、同じくフランスの哲学者であるエマニュエル・レヴィナスの「身代わり(人質)」という概念を、証言する人の置かれた状態として解釈しています。他者のために語る責務を感じ取った証言者は自律的自己自身ではあり得ず、他者の身代わりとなるわけです。身代わりとは何か怖いような気もしますが、でも、自分がただ一人の身代わりなのだと思うと、使命感と勇気が湧いてくるのも事実ではないでしょうか。

エマニュエル・レヴィナス『存在の彼方へ』(合田正人訳、講談社学術文庫、1999年)

(明治大学准教授 越門勝彦)

声のつながり大学第62回 2023年11月17日放送音源アーカイブ