哲学的観点から「声のつながり」を問う(その2)紹介書籍:松永澄夫『音の経験―言葉はどのようにして可能となるのか 20210820 越門第2回

5月21日の第四回に続き、松永澄夫氏の『音の経験』を参考にしながら、声はどのようにして言葉となるのか、という問題について考えてみます。この問題は、様々な物音と同様に音の一種に他ならない声がどのようにして言葉として働くことができるのか、とも言い換えられるのでした。当たり前すぎることをあえて疑問視する、いかにも哲学的な物の見方ですね。宇宙人の視点から人間の営みを観察するようなものだと言ってもいいでしょう。松永氏は、声も物音も区別せず等しく音と捉える宇宙人の視点にひとまず立ち、声の諸特徴を分析してゆきます。
まず、声の基本的特徴は、人間の体―厳密には口―から発せられるということです。もちろん、人間の体を出どころとする音は他にもたくさんあります。というより、体が動く時には常に足音などの音が生じていますし、人が積極的に、意図的に音を出すケースにかぎってみても、拍手するなどの行為があります。さらには、道具の助けを借りるなら、ボタンを押してベルを鳴らすなど無限に多様な音を出すことができます。
では体を出どころとする音の中で、声の特徴はどこにあるのでしょうか。それは一つには発声器官としての口の働きに由来します。人間は、唇、舌、歯、喉の複雑な動きを組み合わせて、空気の流れつまり息を自在に制御することで、バリエーションに富んだ音声を発しています。しかも体の外部にあるものを一切用いることなく、です。手や足にはとてもできないことです。そしてこのように音声を細かく正確に分節できる口の機能が、言語を可能にしています。というのは、ある単語と別の単語との違いは発せられた音声の違いに他ならず、それゆえ言葉の意味とは音声の差異によって支えられているからです。声はいかにして言葉となりうるかという問題を考えるときには、この事実を忘れるわけにはいきません。
しかし、言葉である限りでの声の特性は、発声器官のユニークさだけに由来するのではありません。声は他者に向けて何かを伝えるために発せられる、このことが何より重要です。つまり、コミュニケーションを開くものだということです。松永氏は、コミュニケーションの基礎を示す具体例として、赤ん坊への呼びかけをあげています。自動車を指差して大人が「ブーブー」と言い、それを赤ん坊が模倣し、さらに赤ん坊のその声を真似して大人が「そう、ブーブー」と繰り返す、というやりとりです。こうした声のやりとりについて松永氏はこう述べます。人と人とが、それぞれに自分の存在を相手に告げ知らせ、同時に、「あなたの存在は分かっていますよ、あなたを重要だと認めていますよ」ということを相手に告げ知らせるものである、と。声を介した人と人とのこうした向き合いが、コミュニケーションの基礎を成しているというわけです。
言葉としての声のこの特性は、言葉にならない声、例えば、指を机の角にぶつけた痛みで思わず呻き声を漏らす場合と比べるとよくわかります。呻き声は他人に聞かれることを想定していません。むしろ、他人が近くにいないときの方が自然に出てくるものでしょう。それに対して、私たちが言葉を話すときは他人に聞いてもらうことを期待しています。聞いてもらいたいのは自分の思いですが、それより先に、相手に言葉をかけるときすでに、「私はここにいますよ、そしてあなたがそこにいることに気づいていますよ」ということを相手に伝えているのです。というより、そのことが自ずと伝わっているのです。だから、声を発してそれを聞いてもらうこと、それは根本的には、まずは他者の存在を認め、その他者に自分の存在を告げ知らせようとする営みなのだと言えます。

最後にリスナーの皆さんに問いを投げかけてみようと思います。
本書『音の経験』の中に、次のようなくだりがあります。言葉をなす音声は、人が人に向き合う時の内的ありようを映し出すのであり、それが向けられた人によって聞かれることを要求する。しかし、痛みゆえに発する呻き声は、聞く人を要求しない、と。

さて、問いというのは、呻き声は本当に聞く人を要求しないのだろうか、ということです。確かに、呻いている本人はそれを聞かれたくないとすら思っているかもしれません。けれども、それをたまたま聞き取った他者は、呻き声を発した人の切実な内的ありようについて知ることになります。そこから始まる人と人との向き合いは、双方向的なメッセージのやり取りから程遠いけれども、何かとても大切なものだとは思いませんか?

ラジオ3「声のつながり大学」内「声のコラム 第10回 2021年8月20日(金)放送