声と人間の尊厳、権利とのつながり (書籍紹介:『わたしたちが沈黙させられるいくつかの問い』)20211119 安部第2回

レベッカ・ソルニット『わたしたちが沈黙させられるいくつかの問い』左右社、2021
声のコラム第1回では、声と人間の尊厳、権利とのつながりが問いとして残りました。第2回目は、レベッカ・ソルニットの本を手がかりにこの問いに向き合っていきたいと思います。
レベッカ・ソルニットは『わたしたちが沈黙させられるいくつかの問い』のなかで、声と女性の権利とのつながりについて「声を持つことは重要だ。それが人権のすべてとは言わないが、少なくとも中心的なものだ。」(p.28)と述べています。また、「自分の物語を語ることができなければ、生きながら死んでいるようなものだ。ときには文字通り死んでしまうことだってある。」とも述べています。たとえばDVや子どもへの虐待を思い浮かべていただけたらよいでしょうか。「自由でなければ、自分の物語を語れない。自分の物語が重みを持つ世界で生きられなければ、大切な存在とは言えない」ソルニットはそう続けます。
物語には、物語の語り手と聴き手の存在が必要です。誰もが経験したことがないような壮大なお話でなはなく、わたしの小さな物語。それらを日々の生活のなかで語ること、その語りに耳を傾けることは、コロナ以前そこらじゅうにあふれていたように思います。しかし、人との接触が避けられるようになって以来、小さな物語を語る場が奪われてしまったのではないでしょうか。
2020年の春以降、多くの大学では遠隔授業が繰り広げられています。テレビ会議システムを用いた画面越しの声のディスカッションは、それなりに盛り上がるのですが、何かが足りないようにも感じます。そこから零れ落ちているものが、この小さな物語なのかもしれません。
自分の物語は、語るのに勇気がいります。こんなことを話していいのだろうか。わたしのちっぽけな経験を目の前のこの人は聴いてくれるだろうか。毎日同じクラスで同じメンバーが顔を合わす高校までとは違って、大学は、知らない人同士の集まりです。遠隔授業の場で、それが同時双方向なものであったとしても、画面越しに初めて出会う相手に、自分の小さな物語を語るのはなかなか難しい。
私にとっては久しぶりの、1年生にとっては初めての対面授業をしたある秋の日のことです。教職課程の授業のなかで、ほんのちょっぴりの自己紹介と「自分が考える家族の条件」を話し合いました。テーマがテーマだし、初対面なのでそれほど議論にならないかもしれないなと思いきや、予定していた時間を過ぎても話をしているグループがあちこちにありました。それぞれが「家族」についての自分の物語を語り、耳を傾け、自分はこう思うと返していたのです。ある学生は「ディスカッションってこんなに楽しいんですね!」と言います。学生たちは授業が終わったあとも教室に残って話を続けていました。ソルニットが述べたように「自由でなければ、自分の物語を語れない。自分の物語が重みを持つ世界で生きられなければ、大切な存在とは言えない」のだとするならば、授業を通して自分の小さな物語が受け止められる経験をしたのかもしれません。
大学生は、高校までさまざまな環境で育ち、ひとりひとりちがった経験をして大学に入ってきます。ソルニットは、「世のなかには自分と違う経験をしてきた人々がいて、そうした人々も自分と対等であり、不可侵の権利を有し」(p.214)ているということに対し、「注意を払う」ことの重要性を指摘しました。
ところで、自分とは異なる経験をした他者に注意を払うとき、人はうまく言葉にできない場面に気づきます。沈黙をしているからと言って、言葉や物語がないわけではありません。沈黙のまわりには、語られなかった言葉の海があるとソルニットは言います。
沈黙は、語られなかったこと、語りえないこと、抑圧され、消し去られ、人の耳に届かなかったことに満ちた大洋だ。語ることを許された者たちや、語ってもいい事柄、耳を傾ける人たちによって形作られた島々の合間に、それはある。沈黙にはいろんな形と理由があり、私たち一人ひとりに、語られなかった言葉の海がある。(p.24)
語られなかった言葉の海には、災害の経験が漂います。次回は、災害にまつわる声を考えたいと思います。                           (工学院大学 安部芳絵)

ラジオ3「声のつながり大学」内「声のコラム」2021年11月19日放送 音源アーカイブ↓