今回は、「声」について、哲学の観点から考えてみようと思います。
声がつながる、正確には、人と人とが声でつながる。これは広い意味でのコミュニケーションのことです。複数の人が互いに自分の思いを伝え合い、理解し合うことです。例えば、歯科医院の受付でのありふれたやりとり。「診察お願いします」、「予約の方が先ですので、五番目の診察になります」、「五番目ですか、わかりました」。実にシンプルなやりとりですが、これだって立派なコミュニケーションです。というより、日々の生活で交わされるのは大半がこの種の対話であることを思えば、コミュニケーションの典型と言っていいでしょう。
さて、今回紹介する本『音の経験 ―言葉はどのようにして可能となるのか―』の著者、松永澄夫氏は、このようなありふれたシンプルなコミュニケーションを「ゴール」として設定して、言葉はどのようにして可能となるのか、と問います。
ここで言う「ゴール」とは、哲学的に考えることが目標とするもの、といった意味です。では、日常的に交わされるコミュニケーションを哲学的思考のゴールに設定するとはどういうことでしょうか。それはこういうことです。私の発した声、病院の受付の人の発した声が、思いを伝えるコミュニケーションの手段として、言い換えれば、言葉として、働いているという事実を、自明のものとせず、説明の必要な事柄とみなす、ということです。声が言葉として働いているという現実の背後に複雑な仕組みがあることを見てとり、言葉によるコミュニケーションを可能にしているその仕組みの全貌を解き明かそうとする、そういうことです。要するに、声が特定の意味を担った言葉として発せられ・受け取られるのはどのようにしてなのか、それを真正面から問うわけです。
しかし、声が意味のある言葉として働くというのは当然ではないのか。声とは言葉そのものではないか。そう言いたくなるかもしれません。声はどのようにして言葉となるのか、という問題の立て方は、どこか逆立ちしたような印象を与えるかもしれません。この問題設定を、それなりに理由のあるものとして納得し、受け入れられるようになるためには、発想の転換が必要です。声もまた音の一種である。このことを思い起こす必要があります。変な喩えですが、「言葉の存在は知らないが、人間が口から音を発していることだけはわかる宇宙人」の視点で、世界を眺め直してみるのです。
最初に挙げた例に戻りましょう。歯科医院の受付の人と私を取り巻く環境の中には、実に多くの音があふれているはずです。歯を削るドリルの音、カルテをめくる音、スリッパで歩くパタパタという足音、病院のすぐ外を走る車のエンジン音、など。人の発する声は、これらの様々な音の中の一つに過ぎません。もちろん、声はただの物音とは違います。ではその違いはどこにあるのでしょうか。声の特別さは何に由来するのでしょうか。その特別さは、一つには、声が、音であると同時に「診察お願いします」といった言葉であり、言葉である限りで意味を持つ、という性質に由来するでしょう。すると今度は、声に限っては、音であると同時に言葉であるということが、どのようにして可能となっているのか、ということが問題となるわけです。つまり、声の特別さについて考えること、声と単なる物音との違いを考えることは、音が言葉として働くための条件を考えることに導いてゆくのです。例えば、人間も所詮動物の一種だという視点をとることでかえって、でもやはり人間は他の動物とは違う、ではどこが違うのか、人間の特殊性はどこにあるのか、と問うことの必要性に気づきます。それと同様に、声を音の一種だとみなすことが翻って、声の特別さ、単なる物音との違いを考えることへと導き、さらには、言葉はどのようにして可能となるのか、という問いへとつながってゆくわけです。
さて、以上のように議論の足場を整えた上で、著者松永氏は、丁寧に、注意深く、言葉としての音すなわち声を単なる物音から切り分け、声の特徴を取り出す作業を続けてゆきます。さらに、声を介したコミュニケーションに含まれる様々な要素を明らかにし、コミュニケーションというものが、声として発せられた言葉だけによって成り立っているわけではないことを私たちに発見させてくれます。
しかしまあ、その話は次の機会に譲ることにいたしましょう。
明治大学准教授 越門勝彦
ラジオ3「声のつながり大学」内「声のコラム」2021年5月21日放送