子どもが自ら話そうとすることに耳を傾ける  20221118 安部第5回

第4回目では、子どもの気持ちが声になるプロセスはどのようにして生み出されるのかという問いが浮上しました。声のコラム第5回目は、石井美保『遠い声をさがして』を手がかりに、このことについて考えます。
本書は、2022年10月7日放送の「ことばにならない声 声にならないことば」で國枝さんが取り上げたものです。2012年7月30日、京都市立小学校のプールで1年生の浅田羽菜ちゃんがおぼれ、翌日亡くなりました。この日、プールには1-3年生の児童69人が参加し、3人の教員が指導に当たっていました。13:45からの自由遊泳で、羽菜ちゃんは、ひとりの教員に「あそぼ」と声をかけます。教員は、羽菜ちゃんを抱き上げては水の中にぽちゃんと入れる遊びをしたあと、他の子どもたちから誘われて鬼ごっこへと移っていきます。それから約1分後、羽菜ちゃんがうつぶせの状態で浮かんでいるのを発見します(pp.45-47)。
羽菜ちゃんの最後の声を聴きたい―ご両親と友人たちは、民事裁判や第三者委員会といったさまざまなルートで、声を探ろうとします。その一つが、2013年夏のプールでの再現検証でした。このとき、羽菜ちゃんの代役を引き受けた茉実ちゃんは羽菜ちゃんと同じ保育園で一緒に育ってきた幼なじみでした。再現検証の翌々日、茉実ちゃんのお母さんである加代子さんは第三者委員会に対し「できるだけ早く茉実への聴き取りをお願いしたい」という希望を伝えています。このとき、加代子さんは浅田さん夫妻と友人たちに向けたメールに「もしかしたら、何か聞いているかもしれない」(p.125)と記していました。しかし、第三者委員会からの聴き取りはなかなか実施されず、ようやく始まったのは10月半ばだったといいます。しかも、このときの聴き取りは「水の深さや移動の難しさといった点に集中」し、「聞いてほしいと感じていた事柄」に踏み込むことはなかったのです(p.122)。
茉実ちゃんは、何を聴いたのでしょうか。
石井は「代役としての役割だけを彼女に想定していた第三者委が想定していなかったであろう側面」がふくまれていたと指摘します。「羽菜やったらどうするやろ」という加代子さんの問いかけに、「先生にもう1回遊んでもらいたくて、追いかけたと思うで。羽菜は、ああいうときに一人でいるのが嫌やねん。誰かと一緒にいたいと思うねん」と茉実ちゃんは答えます(pp.122-123)。自分はそうは思わなかったとしても羽菜はこう思うだろうというのです。そして2015年夏の再々現検証に際しては「自分は身長が伸びてしまったから、もう羽菜の役はしてあげられないのか」「たとえ羽菜と同じ身長の子がいても、羽菜の気持ちがわかるかな」(p.186)と心配さえしていました。
石井は、「事故の検証過程において、故人のことをよく知る者が事故当時と同様の状況に身をおくことを通して生じる洞察は、単なる憶断や思い込みとは」異なり、本人の主観というよりも「故人の行動に寄り添い、その思いとまなざしを汲みとることに重きを置くような、エンパシー的な理解のあり方」(p.208)であると指摘します。
エンパシーは、子ども支援において鍵となる考え方です。森田ゆりは、共感(empathy)を持って聴くとは「相手の主観的感情を相手の立場になって理解していることを相手に伝えながら聴くことだ。たとえ自分だったそのようには感じないだろうと思っても、相手の気持ちをまずは受容することだ。分析や解釈や価値判断をするのではなく、相手の主観的経験をただ受け止めることである」(p.231)と述べています。
「先生にもう一回遊んでもらいたくて、追いかけたと思うで」という茉実ちゃんのことばは、その後、自主検証で大きな意味をもつようになります。「後追い仮説」と名付けられた仮説の検討には、さらにもうひとりの同行者を要しました。数理的シミュレーションでアプローチした森下さんです。石井は同行者の一人である森下さんの指摘をふまえ、「仮説自体は最終的には証言に依存することなく科学的方法によって検証されなくてはならないが、その前段階において仮説を絞り込むためには、羽菜ちゃんのとりえた行動の可能性を、その理由や意図にまで考えをめぐらせて想定する必要がある」(p.211)と述べます。
再現検証や聴き取りは子どもに心理的負担を与えるというリスクもあります。その一方で、同行者のひとりであり学校事故の専門家である住友教授は、学校事故の聴き取り調査場面での「あのとき言えなかったことを、思い切りここでいえてよかった」という子どもの声を紹介します。 聴き取り調査において「話を聴いてもらう」ということそれ自体が、子どもにとって大切な経験になりうるのです(p.118)。そして「おとなが詳細を聞きだそうとするのではなく、子どもが自ら話そうとすることに耳を傾け、共有する」(p.119)このことを通してでてきたのは、羽菜ちゃんだったこうするだろうという茉実ちゃんのことばだったのではないでしょうか。

ふいに、羽菜ちゃんの気持ちが不確かな声となって、かすかに響くような思いに至ります。
子どもの気持ちが声になるプロセスとはどのようなものか。次回も、この問いを考えます。

石井美保 2022『遠い声をさがして 学校事故をめぐる<同行者>たちの記録』岩波書店
森田ゆり 1999『子どもと暴力 子どもたちと語るために』岩波現代文庫

(工学院大学准教授 安部芳絵)

「声のつながり大学」内「声のコラム」 第38回 2022年11月18日放送