2020年度第1回声のあつまり「安永二年の疫病流行―江戸、東北地方を中心に―」(20200614)

「安永二年の疫病流行―江戸、東北地方を中心に―」

報告者: 菊池勇夫(日本近世史)

はじめに

江戸時代も後期に入った安永期(一七七二~一七八一)は、宝暦の飢饉(一七五五・五六)と天明の飢饉(一七八三・八四)の間にあって、気候が比較的温暖で、いわゆる田沼時代の重商主義的な政策のもとで経済活動が盛んであったという印象がある。しかし、『浚明院殿御実紀』(新訂増補国史大系『徳川実記』第一〇篇、吉川弘文館、一九八二年)によると、安永元年(明和九、一七七二年)二月の目黒行人坂の大火(明暦の大火以来)、同年八月の江戸暴風雨、同二年春の疫癘流行、同三年六月の京坂地方大風雨、同五年春末よりの麻疹諸国流行、同六年肥前暴風、同七年二月江戸大火、同年七月京都大雷雨、同八年八月江戸大風雨、同年一〇月薩摩桜島・伊豆大島噴火、同九年六月関東洪水など、列島各地で災害が相次いで発生していた。被災した大名(藩)は火災・凶荒・洪水・大風雨・水害を理由として幕府に援助を求め、幕府が恩貸した事例が少なくなかった。
大火や風水害に加えて、疫癘・麻疹といった感染症がはやった時期といえようか。安永五年(一七七六)の麻疹流行の際には、将軍家治の跡継ぎとされていた大納言家基も罹患するなど流行した。それ以上に、『徳川実紀』が、安永二年記事に、「此春頃より疫癘しきりに行はれ、下賤のやから多くまぬがるゝ事なかりしかば、おほやけにもあはれませ給ひ、人葠を下し給はりて御救ひあり(後見草)」と記していたように、同年の「疫癘」が江戸の住民を悩ました。典拠の『後見草』は杉田玄白の著書としてよく知られ、その災害観については以前述べたことがある(「飢饉と災害」『岩波講座日本歴史』第一二巻、三〇五~三一〇頁、岩波書店、二〇一四年)。この短い記事からだけでも、「下賤」の者に多いという階層性や、公儀(幕府)による医薬を通しての救済といった重要な問題が浮かびあがってくる。
この安永二年の疫癘は疫病などとも書かれるが(本稿では以下、疫病を一般的に用いる)、近世の主要な感染症であった疱瘡、麻疹、あるいは傷寒、痢病、瘧(おこり)、流行風(インフルエンザ)とは異なった病気の症状のようであり、得体がしれない流行(時行)病であった。江戸だけでなく全国的な流行だったとされるが、感染のみられない地域もあり、一様ではなかったと推察される。どの程度の広がりであったのか、新型コロナ禍のため不本意ながらその調べができていない。手元にある文献とデジタルアーカイブの利用だけなので、主として東北地方の範囲にとどまってしまうが、弘前藩や八戸藩、仙台藩などで流行していたことが確認できる。弘前藩の流行の事実は以前から知ってはいたが、江戸の流行などと結びついているとは想像していなかった。史料的には制約があるが、以下、この安永二年の疫病について、江戸および東北地方における流行を通して、どのような点が着目されるのか、医学知識に暗いながら、できるだけ多様な論点に及ぶよう述べてみたい。

一 江戸における流行

安永二年(一七七三)の江戸の疫癘流行については、現在でもそれ以上に詳しい類書がないと評される富士川游『日本疾病史』(東洋文庫、平凡社、一九六九年)がまず参照されるだろう。分類された病名のうちの「疫病」として扱われ、その「年表」には『愚紳』『武江年表』『一話一言』『医道問答』『一本続王代一覧』よりの関係個所が抄出されている(五八頁)。また、編年体の『東京市史稿』変災編第三(東京市編、東京市、一九一六年)も基本的な災害史料であるが、「安永二年疫癘」として、前出の「浚明院殿御実紀」や『続談海』、『後見草』、『蜘蛛の糸巻』、『曳尾庵随筆』が抄出されている(九五三~九五六頁)。ほかに、『古事類苑』方技部(吉川弘文館、五版、一九八二年)の「疾病」のうちの「流行病」に、『救瘟袖暦』からの同年流行に関する箇所が引用されている。およそ、このような文献が安永二年の疫病史料として知られてきたことになる(一三三一~三二頁)。これに加えるべき史料がどれくらいあるのか現状では調べようがないが、ひとまずはこれを丁寧に読んでみることとしよう。
これらのうち、斎藤月岑『武江年表』の「凡そ十九万人疫死」などとする記事が一般にはよく引かれているようだが(『増訂武江年表』1、一九一頁。東洋文庫、平凡社〈東洋文庫〉、一九六八年)、執筆されたのはだいぶ後で、諸書を参照して嘉永三年(一八五〇)に刊行されている。そのためここでは除くとして、右の記録のうち最も詳しく記述しているのは、『徳川実紀』が依拠していた『後見草』であろうか(森銑三ほか編『燕石十種』第二巻、中央公論社、一九七九年)。蘭方医玄白の同時代の記録なので、医者の観察として信頼をおいてよいと思う。箇条的にまとめてみると、およそ以下のようになる。
①病名については「疫癘」とする。明和四年(一七六七)流行の「感冒」とは異なり、毒が強い。一度この病に感染した人で、助かったというのは聞かない。なお、明和四年の「感冒」は九月が盛んで、このため道の往来が絶え、流行は江戸から佐渡、越後のほうへ移り、極老の人など命失うものが数多いた(一一〇~一一一頁)。
②流行の時期は、安永元年の冬から翌二年の春にかけて「天下」に行われ、秋に至り、いつとなく止んだ。
③流行した地域は、とりわけ東海道に甚だしく、遠州日坂宿では「人種」も尽きるほどに死んだ。
④江戸でも、あまりにも人が死んだので、公(幕府)より「御救」として「賤しき者」に「人参」薬を給した。
⑤奉行(町奉行か)が「棺屋」のかぎりを呼び出し、閏二月より五月晦日までの間に「葬具」を商うことがどれくらいあったか問うたところ、一九万人ばかりとのことであった。
⑥この病は「中人」以上(中上層の人)では罹る人が少なく、「下賤の者」(庶民層)のみが多かった。
⑦「戦国」の昔とは違って、死んだ人がたとえ「賤しき屍」であっても、皆それぞれの分に応じて礼をただし、骸を晒すのは一人もいなかった。
⑧年頃(年来)、疫病除けのまじないで、その姓名(具体的にはあげず)を札に印して家の門に張ってきた男が、この「疫災」に自分だけでなく家内残らず煩い、死に果てた。
医者玄白は、⑦の「戦国」のその昔にあっては、「恥を知り、義理を弁へ、国の為、主君の為命を棄し人々」であっても、その白骨を埋葬する人はおらず、今でも野山に捨てられたままで、雨露にうたれていると聞くとし、「治れる世の国恩」すなわち徳川の太平の世に生まれた有難さを述べている。「戦国」から「治世」へのいわば社会進歩として徳川体制肯定の立場が表れている。
また、⑧については、男の名前を「深川蛤町水や半助」と具体的にあげ、その行為を「おかしき事」、「俗人の習」ながら「腹かゝゆべき一談」と突き放している。医学(科学)と俗習(民間信仰)の二層構造、そして前者が後者に対して明らかに優位性を得ていく時代への転換を示す、玄白の俗習への軽蔑感が表れている。ただ、疫病(疫病神)の侵入を防ぐために、門口に「蘇民将来」や「軽部安右衛門」「蒲野文右衛門」などといった名札を張る習俗も疫病送りなどとともに、修験の関与によって廃れるどころかますます盛んになったのが現実であって、医療は玄白のいう「賤しき者」(民衆)にはまだ遠かった。
他の記録は、玄白の①~⑧についてどのように観察、認識していただろうか。岩瀬百樹(山東京山)著『天明事跡 蛛の糸巻』は、①「疫病」と記すが、②夏の流行、⑤官より寺院への尋では「疫死」一九万人、⑥「中人」より上は病める者は稀、「下賤」に多い(同前『燕石十種』第二巻二八九頁)とする。死者数、死者の階層性は『後見草』と同じである。太田南畝(蜀山人)著『半日閑話』は、①「疫病」とし、②去年より引き続き疫病が甚しく、春より夏に至り死者がおびただしかった、④六月三、四日頃、公より江戸町々へ残らず一町につき「人参」五両ずつが下された、⑤死者は品川・新宿のうちだけで八〇〇人である、とする。品川・新宿という街道口があげられているのは、そこから江戸市中へ感染が広まったことをうかがわせる。とすれば、東海道筋の流行が始まったのはそれより前になるであろうか。また、前年一一月初めよりの「疫風」で、道中雲助(街道の駕籠かきなどの人足)および火消屋敷(定火消)抱えの鳶が悉く死んだので「雲助風邪」と名付けられたとあるが、この「疫風」と①の「疫病」とが一つながりのものか、玄白の場合には元年冬からとあって連続的にとらえていた節があるが、その点がはっきりしない(『日本随筆大成』第一期第八巻、新装版、一九九三年、三〇八~三一一頁)。
内田土顕著『医道問答』は、①「疫病」、②春より夏に至り流行、⑥都下の死者多く、病患に罹る者は「奴隷」(奉公人様の者が念頭にあるか)に多い。加藤曳尾庵著『曳尾庵随筆』は、①「疫病」、③諸国流行、④公儀より「日光人参」を下される。幕政記録の『続談海』は、①疫病、②当(安永二年)夏初めより、③諸国大流行、⑥尾張中将(徳川治休)煩い(狂歌に、御屋敷へ町から移る疫病は始中間おわり中将)、七月一二日に御側御用取次白須甲斐守(政賢)が病死したが、これより前の先月、嫡子淡路守が御小姓勤のところ「疫病」で病死した(急養子願)、とそれぞれ記している(九五三~九五六頁)。武家方でも罹患や死者がいなかったわけではないが、尾張中将の狂歌は屋敷内でも雑役に従事する「中間」から入ったとするのは、玄白の「下賤」に多いとする階層性につながっている。
④「人参」に関しては、実際に『江戸町触集成』第七巻(塙書房、一九九七年)に、町奉行所よりの六月三日の仰せ渡しの触(八三九九号、二九五頁)が収載されている。この節、当地(江戸)町方では「疫病」が流行し、病人が多く難儀に聞こえるので、「御救」として町数に、「壱丁」(一町)につき「御製法之朝鮮人参」を五両ずつ(その金額に相当する人参)を下されることにした、ただし「家別人別割等ニ致候筋」ではなく(皆が対象なのではなく)、「自分ニ人参用兼候軽者共」(自分では人参を買えない、その日暮らしの軽い身分の者たち)のための「御沙汰」であり、「軽者」への「御慈悲」が強調されている。各町の名主・月行事へ「御製法之人参」を渡し、その責任で対象者へ支給されることになっていた。
また、安永四年五月の八四五一号触(三四六~三四七頁)では、東海道、中仙道、美濃路、佐屋路の宿々が近年旱損や流行病で困窮に及んでいるので、人馬賃銭を去年(安永三年)中より七ヶ年の間割増とし、その「添高札」を建てることが江戸市中に伝えられていた。③東海道筋などの疫病流行については未確認であるが、確かに幕府も疫病流行で宿駅が困窮していたことを認識しての救済策であったことが知られる。
工藤平助『救瘟袖暦』は、「安永ノ初、長夏流行病」として、その病因について考察しているが、後で取り上げることにする。右にあげた江戸の記録ではないが、弘前藩の『津軽編覧日記』(次節参照)には次のような風聞記事がある。
正月より去年はやり候時疫江戸にて専ら時行、正月より五月迄九万余人病死、其後七月中迄一統時疫ニ而死候者寺々へ御改被仰付候処廿六万人之由、其節ニ町々へ公義より被下候人参代高三拾万両之由、此時疫日本中大ニ時行、何国ニ而も人多死ス、武家にてハ煩候者無之、只町家・在家斗不残相煩、其内にても富貴成家にてハ煩不申候由
ここでは、①「時疫」、②去年(安永元年)はやった時疫が江戸では正月より流行、③日本中流行、⑤正月~五月九万人余病死、七月中までに寺院調査で二六万人時疫死、④公儀の支給人参高三〇万両、⑥武家には患う者はなく、富家を除く町屋・在家ばかりが患う、といったことが噂となっていた。死者数や人参高はそのままには信用しがたいとしても、この疫病の罹患の身分階層性は玄白らの認識とかさなり、次節で述べる弘前藩の流行の特徴とも合っている。

二 弘前藩における流行

安永二年(一七七三)の弘前(津軽)藩の疫病については、和歌森太郎が同藩の修験(山伏)のありようを述べたなかで、『津軽藩日記』(『弘前藩庁日記(国日記)』によって疫神送りの概要を説明し、『平山日記』から疫病の症状および山伏の疫神送り・祭りの箇所を引用している(「岩木山信仰と津軽修験」、戸川安章編著『出羽三山と東北修験の研究』名著出版、一九七五年、三六六~三六八頁)。これが紹介されたはやい例といえようか。
ここでは和歌森があげた史料も含め、未見史料は別にして、ある程度具体的に実情がわかる以下の六点、すなわちA『永禄日記』(みちのく双書、青森県文化財保護協会、一九五六年)、B『本藩明実録・本藩事実集』(みちのく双書、青森県文化財保護協会、二〇〇三年、(以下『明実録』と略記)、C『平山日記』(みちのく双書、青森県文化財保護協会、一九六七年)、D『梅田村彦六家記』(奥瀬清簡『本藩旧記』歴史図書社、一九八〇年)、E『津軽編覧日記』(弘前市立図書館所蔵、および同館所蔵畑山信一解読本)、といった、武士・豪農・医者であった人が執筆した年代記類、そしてF『弘前藩庁日記(国日記)』(以下『藩日記』と略記)を使用して述べてみたい。年代記類は同一の情報に基づくと思われる記載、あるいはどちらかが典拠となっている記事も少なくないが、それのみにしかない事柄、あるいは著者の受け止めかたが記されている場合があるので、突き合わせてみることが必要である。
この疫病に関係して、流行の発端とされているのは、安永二年二月のつぎのようなできごとであった。B『明実録』から引用しておこう。この著者の弘前藩士山形宇兵衛は郡奉行や町奉行などを務めた人物である。
同(二月)廿九日、頃日青森安方町之漁師漁ニ出候処、海上に箱一ツ流れしを拾ひ、取開き見候所、人形男女二ツ有之由、夫ゟ此漁師之家内時疫相煩致病死候、親属四隣之者、見舞候程之者ハ不残相病ミ相果申候、是ゟ藩中一汎之流行ニ相成、在町在毎ニ煩出し死亡之者も多く候、士家ニハ入不申候、(一〇三頁)
同じく弘前藩士木立要右衛門(馬術師範)著のE『津軽編覧日記』にはもう少し詳しく書いてある。安方町の漁師が海上で拾い、それを開いてみたところから「時疫」がはやりだしたとしている点など同じだが、その拾い上げた箱について「余国にて時疫除に祭テ海上江流したる疫病神の入たる箱なるへし」と言われたという。余国とするのは不明だからであろうが、外部から流入した「きれひなる人形男女」二体の疫病神が原因だと考えられた。事実であったか確かめようがないが、そう語られ、信じられていたのであった。
青森は弘前藩最大の廻船が入港する湊であったから、大坂や江戸とつながる入津船が外から疫病をもらした可能性が高いかと思われる。御国での流行ぶりについて、「御国ニ而時疫流行所々村々にて死候者何百人と申限無之、御家中には一向無之、町家もすくなく只在方斗多ク、二度三度も煩返し候」と、やはり在方に集中して流行した様子を同じく伝えるが、二度も三度も「煩返し」た、とあるように一度の流行で終息せず、厄介な疫病であったことがうかがわれる。
それ以降の経過については、湊村(現五所川原市)の豪農(庄屋、郷士など)平山家の家記C『平山日記』が最も詳しそうであるが、疫病だけに医者の記録であるA『永禄日記』を軸に以下述べていこう。中世の浪岡城主北畠氏後裔である舘越村(現板柳町、館野越)住の医師山崎立朴が著わした家記で、この疫病流行を見聞していた人である。関係部分を抜粋しておこう。まず、安永二年の記事からである。
去冬より①妖災疾頓亡(ヨウサイシットンホウ)と申うた時行、謡候処惣而怪敷はやりうた前々御停止ニ付、厳敷停止ニ被仰付候、②二月須賀湯(酸ヶ湯)へ湯治ニ参候中カ通梅田村辺より数人有之候処、一度ニ病気ニ而半端にして帰り、何も大病ニ而是を見廻候遠近より参候親類近付、不残病移り、是より段々伝染して終ニ国中大時疫と成…
時疫次第ニ夥敷事ニ付③大行院ニ而祈祷被仰付候処、古来も御座候由ニ而、人形を作り国中山伏之長者殿を集、一七日之祈祷ニ而行法甚たあらたにして人皆耳目を驚し候、六月十四日一七日之祈祷満し、同十五日山伏数人ニ而青森へ送り其人形を船ニ乗せ、風之侭に放ちやり候、④其間国中参詣夥敷事、参銭之多き事難尽筆紙、然処⑤四五日過、右之人形又々返り参候由ニ而、亦又山伏共参是を送り候、是ハ唯事ニハ不可有、時疫弥増時行可申先兆と人々申候、⑥此祈祷ニ大行院江参候山伏数人ニ候処、此後時疫ニ而皆々相果候、此時青森へ送り候路次之参銭多候処、是を取候山伏不残相果候、(二三三~二三四頁
〇囲み番号、および傍線は便宜的に筆者が付したものであるが、〇囲み番号順に、他史料との異同を示し、また他史料によって補いながら説明していこう。
①「妖災疾頓亡」(ヨウサイシットンホウ)という弘前藩が禁じた時行唄。C『平山日記』に、「去冬の頃より他国より参候者何となく唄のはやしに妖災疾頓亡と唱申候」(三六二頁)、D『梅田村彦六家記』(梅田村、現五所川原市)に「去冬より時行候唄のはやしに妖災疾頓亡とはやしとて至而忌々しく候誰か又如斯訓訳せしか面白からぬ浮説」〈二二三頁〉と書かれているので、領内に流布したはやり唄であった。はやり唄とはいっても「はやし」(囃子)であるが、全体はどのような歌詞だったのだろうか。何か不気味めく得体のしれない忌まわしさであった。他国人がもらした、去冬よりとあるから、他国での疫病流行は安永元年の冬に始まっていたことになる。
②須川湯(酸ヶ湯)温泉へ湯治に出かけた梅田村辺の入湯者より広まる。各村からやってきた湯治客が集団感染し、そして村へ帰って感染を広めたということになろうか。発端は前述のように、青森安方町の漁師であったが、感染した青森の人たちが酸ヶ湯の湯治場に行ったということは十分考えられる。ただ、その梅田村かと思われるが、D『梅田村彦六家記』には「在家抔は村端小泒(派)等より病初め」(二二三頁)、C『平山日記』には「初は村のはつれ小家或は派抔と言所より病出し」(三六二頁)とあって、酸ヶ湯湯治のことは書かれていない。派(ハダチ)は新田のことである。その記述を注意深く読むと、病の出始めが村のはずれというのは、他村との出入り口にあたるので、明らかに村の外から入ってきた疫病であった。
③大行院が藩より祈祷を仰せつけられ、一七日の祈祷のあと、人形を青森へ送り、船で海(陸奥湾)へ流した。大行院は当山派の修験で、弘前藩の修験司頭であった。その地位にかけて祈祷力が世間で試される機会となった。「古来」もあったというのは大行院側の語りかと推察される。C『平山日記』にも「古来先例有之由」(三六二頁)と同様に書かれ、いっぽうE『津軽編覧日記』には「先年享保六年之通時疫除き御祈祷被仰付候」とあって、あたかも先例をふまえた大行院の祈祷であるかのようである。先例がもし享保六年(一七二一)を指すとすれば、この年は確かに「時疫流行」の年で、藩の命により一〇月朔日より一四日まで、長勝寺(藩主家菩提寺、曹洞宗)において大般若祈祷が行われていた(二〇〇頁)。大行院の祈祷のことは知られない。
C『平山日記』によると、享保二年(一七一七)夏に始まった時疫で、今もって所々にみられ、長い流行であった。享保二年の箇所には人が多く死に、家によっては死に絶え、村々で「ぼうの神」送りが頻繁であったことが記されている(一九四頁)。「ぼう」とは疫病を指す民俗語彙である。一般的に言って、災いや穢れを祓う人形(ひとがた)送りの歴史なら、鹿島送り・疫病送りの民俗として珍しいことではない(神野善治『人形道祖神―境界神の原像―』白水社、一九九六年、など)。大行院が疫病退散の祈祷や疫神送りに関与してきたとしても、弘前から青森まで大々的に行列をなして疫神送りをした先例が以前あったとは考えにくいのではないか。安永二年が最初の執行であったとすれば、疫病神が青森の海上で拾われたことを受けて、その海上へ送り戻す、そういった心意が働いているだろう。
大行院の祈祷の様子は、E『津軽編覧日記』にやや詳しく記されている。大行院の神前に疫神二体を拵え、山伏二二人が毎日、七日間の祈祷をし、七日目の晩、「火しやう(生)三昧」し、湯釜を立て、その湯を使った後にはその湯をかぶり、または悉く赤く焼けた鍬を掴み、その後二〇人の修験が残らず火の上を素足で踏み歩き、「神変不思儀(議)」のことによって諸人の目を驚かした。八日目に右の人形を青森まで行列して持っていき海中へ流した。ほかの記録も祈祷の行法が新しく、しかも荒く、耳目を驚かし、青森へは大行院が乗物、そして山伏数百人が付き添ったなどと(C、D)、その一大イベントぶりを記している。
このような大行院の祈祷・人形流しの経緯については、祈祷を命じた弘前藩の『藩日記』が詳しく正確だろう。時系列に沿って疫神送りに関して主なところだけ示しておこう。
・六月二日条 藩、大行院における「時疫除ケ御祈祷」の取り扱いについて、「送り帰シ」の修法が済んだら、早速弘前和徳口より青森まで送り返し、青森では漁船で沖合へ送り返すよう命じる。
・六月三日条 大行院、道筋は当院~茂森町覚勝院丁、本町壱丁目~五丁目親方町、本寺町横町~東長町和徳町、同和徳村~藤崎目鹿沢、浪岡村~油川村、青森湊町とし、同町より漁船で沖合へ送る、なお昼賄は浪岡村、青森で一宿・賄としたいと申し出る。
・六月八日条 大行院、修法中「御紋形之御幕」三張の拝借を申し出るが、藩は認めず、祈祷中の張番として足軽両人を付けることにする。また、大行院、弘前より青森まで送り返しの町人足一〇人、和徳口より青森まで在人足二〇人・貸馬二疋を願い、藩これを認める。
・六月一二日条 青森惣名主、疫神を青森沖へ流し返すことについて、当所は春中より時疫流行、鎮守毘沙門天で祈祷のうえ、疫神を堤川下口へ送り返したが風が悪く海辺を漂っていると町中の者が風聞し、その後数人の病人が出た、これにより、こたびの(大行院)の疫神、万一風が悪く海辺を漂うことになれば諸人の人気にかかわるので青森口での送り返し「御免」を願い出る。藩、大行院に詮議を申し付ける。大行院、郡内一統の祈祷送り返しの人形へは「結願之秘法」を封じ込め、「天魔外道悪鬼払時疫退散之法式」で送るので、たとえ風が悪くて磯に寄っても一通り加持が済んでいるので差しさわりは毛頭ない、順風を見合わせて漁船で送り、「仮船」の漁船へ人形を乗せて海中へ沈め、あるいは人形を焼き捨て土中へ埋めるということはあってはならないと申し出る。藩、これを認める。
・六月一四日条 大行院、明一五日の夕、結願として火生三昧の秘法を執行する、諸人参詣で群集すると、火の元の用心や、男女が静かにせず穢れなどで怪我があってはよくないので、即日の昼八時(午後二時頃)過ぎより参詣・見物人は差し止めると申し出る。また、押して入り込もうとする者もいるかもしれないので、祈祷中の張番二人を一五日八時よりは増張番四人にしてほしいと願う。藩、それを認め、諸手足軽より二人、町同心より二人の四人を増張番とする。
・六月一八日条 大行院、拙僧は一昨一六日の暮六時半過ぎに青森へ着、翌一七日昼四時過(午前十時頃)より順風になったので、同所浜町の磯より沖合へ疫神人形を送り返した、同日昼九時過(十二時頃)までで加持修法が済み、只今帰寺、その旨申し出る。
・六月二〇日条 青森町奉行代、大行院は一六日の暮六時過ぎ着、大行院の申し出で前浜の磯際に疫神を差し置く苫懸けの仮小屋をつくらせ、一七日昼四時頃、疫神を沖へ送り返す際、大行院は磯際で加持、漁船で送り返して事は済んだ、その際、漁船一艘・水主六人(漁師の内)、大行院上下六人、ほかに修験五人・下男二人が関わり、宿は毘沙門天鍵取の地福院宅に頼み、一六日晩より一八日朝まで町賄とした、以上申し出る。
六月二日条によると、青森からの沖への疫神流しは藩から命じられているが、おそらくは大行院から提案し、郡内一統(津軽郡一円が津軽氏領)の祈祷・疫神送りとすることで藩の意向と合致し、藩命のもとで警備の足軽の派遣、人足・馬の提供などを受けることができた。弘前から青森までの経路や、青森のどこから沖へ流したか(港町ともあるが、同町名は存在しないので浜町のことだろう)がわかる。一五日の結願、一六日の行列、一七日の送り返し、という日程もはっきりする。この経緯のなかで、青森町の住民が、同町の経験から、疫神を沖に流して戻ってきたらと心配し、沖流しの中止を求めていたことが注目される。大行院は祈祷で封じ込めているとして強行突破した。そして一八日の大行院の藩への報告、および二〇日の青森町奉行代の報告で疫神送りは終了した。
④参詣がおびただしく、多い参銭(散銭)。B『明実録』にも、貴賤群衆して参詣し、賽銭は巨万をなし、大行院は大いに富んだとある(一〇四頁)。時疫流行の不安のなかで、衆目を驚かす修法のパフォーマンスをやってみせて参詣人を集め賽銭を得る、宗教活動も一面では経済活動であるので、そのように多大な収入を得たに違いない。
⑤海上に流した人形が返り、ふたたび山伏が行って送った。ますます時疫流行の先兆と受け止められる。C『平山日記』にも四、五日過ぎ、その人形が渚へ寄り、これを見て只事ではないと言う(三六三頁)。D『梅田村彦六家記』もそうした「大騒」を記している(二二三~二二四頁)。Cは大行院での祈祷だけでなく、行列が通った弘前から青盛(青森)までの道路や、そして海へ送るまで諸人の参詣がおびただしかったが、しかしその「験少しも相見不申」と何の効果もなかったことを批判的に書いている。
⑥祈祷で大行院へ行った山伏、そのあと時疫で皆果てた。青森へ送る路次で参銭を取った山伏残らず果てた。B『明実録』に、この事に預かった山伏も大抵は時疫を煩い果てた者も多くあり(一〇四頁)、またF『津軽編覧日記』に、この祈祷で大行院へ行った山伏はその後時疫で大方果てた、同様のことを記している。散々な結末で、山伏の評判を落としたが、山伏が集まり、人々が群れるのは当然感染を広めることにつながった。
以上が、A『永禄日記』に書かれていたことについてであるが、他史料にはこのほかにも安永二年の時疫流行に関しての記事がみられる。⑦以下として紹介しておきたい。
⑦村における疫神送り。C『平山日記』によると、村々では「疫の神祭」を二、三度と執行した。山伏を頼んで「火焼ざんまい」などと「頓弁」を言って怪しいことして、この疾を遁れようとしてもますます流行して、山伏も段々に煩って死ぬ者が多かった。また、村々にて百万遍の念仏を執行すればよいと言って、皆で燈籠を拵え、蝋燭を費して、葬礼のように鉦をたたいて回っても験がなかった(三六三頁)。同じのことはD『梅田村彦六家記』にも記されている(二二四頁)。村々では「ボウノカミ」と呼んだ疫神送りが退散の期待を込めて盛んに行われたが、疫病は終息することはなかった。
⑧感染者の忌避 C『平山日記』によると、この病は伝染するので、親類や近付きの者であってもこれを嫌い、その門(の前)を走って通るほどであった。しかも家内残らず病むので取扱する者もなく、死んでも葬られない者も多かった(三六二頁)。
⑨売薬。これもC・Dが記すが、弘前藩の家中の某が、一包一銭ずつの薬を売り出し、これを用いれば病を除くことができるということだったが、験はなかった。
⑩弘前藩の施策など。『藩日記』からわかることをごく簡単に紹介しておくと、上述の大行院の時疫除御祈祷のさい、祈祷の御守札を町・在とも一統にくだされることになっていた(六月二日条)。御守札といえば、岩木山百沢下居宮(社司阿部播磨守)は「自分物入」(自己負担)祈祷を行い、「虫除五穀成就」および「流行病退散」の御札など藩に差し上げていた。(六月七日条)。藩はまた、青森町の時疫煩いの極難者に対して、親族や知音の者による病家の見継・救合を強調しながら、支給用として白米五〇〇俵・味噌五〇〇目代を用意している(六月一六日条)。この疫病でどれだけの人が死亡したのか、なかなか数字が残っていないが、同日条に青森町では春立より死亡の者三〇〇人余あり、この先、病人は一〇〇一人あると、勘定奉行が右の救済の件に際して報告している。
およそ以上が弘前藩における安永二年の疫病流行とそれに対する社会や藩の反応ないし対応であるが、流行はその年限りではなかった。安永三年であるが、A『永禄日記』によると、時疫がますますはやり、一軒も煩わない者がないほどで、死絶の族もはなはだ多く、後には四隣往来が止み、病んでも薬を用いず、死んでも葬らないほどになった。藩からは江戸の吉川源十郎(吉川神道)よりの御守札(「招幸抜災之御守札」)を一組へ一札ずつを配られている(二三五頁、B『明実録』によると二月二八日、一〇六頁)。このAには書かれていないが、B『明実録』では一二月二〇日(一〇九頁)、C『平山日記』では一〇月(三六九頁、Bが正確か)、表医者(御番医)藤田玄伯、町医中村東宜・青藤玄祐(玄伯)の三人に郡中を廻り施薬するよう藩の命があった。これは在々の内福(金持)の者が礼金(寄付)を出すことによって実現したもので、Cの平山家も少分とするが出していた。翌四年三月二三日にも右三人が廻郷を命じられている(B、一一一頁)。宗教・祈祷頼みから医薬治療へと地域社会が動き出していることを示している。しかし、領主権力は、同三年一〇月、郡内取り締まりとして五軒組合を定め、「吉凶変事」において「連座之法」で相互に見継ぐという以上の施策を打ち出すことができなかった(B一〇八頁・C三六六~三六七頁)。
安永四年になっても終息しなかった。A『永禄日記』に去々年(安永二年)よりの時疫「専はやり」、死亡の族はおびただしいとし、これまでの時疫とは症状が異なっていることを指摘している(二三八頁)。症状については、C『平山日記』が詳しく記しているが、どんな感染病であったのかは、別に節を設けて述べてみたい。安永五年も「時疫国中未タ甚し」(A二四一頁)であり、加えて夏には「はしか」が流行した。それではいつ終息したのか、C、D『梅田村彦六家記』は安永七年になってようやく止んだとしている(C三六三頁、D二二四頁)。村々に波及、蔓延し六年間ほどもこの厄介な疫病に悩まされたことになる。
ただ、よくわからないのは、上述の記録ではおびただしい疫病による死者が出たかのようであるが、実際にはどうであったのかという疑問である。前述のように、青森町ではある時点での『藩日記』の三〇〇人余という数字が知られる。青森町の人口は明和元年(一七六四)八九五〇人、安永八年(一七七九)九〇三九人であった。この間に安永二年疫病があり、一時落ち込んだとしても経年的にはむしろ増加傾向にあり、明和・安永期は同藩では人口が最も多い時期であった(拙稿「弘前藩青森・外ヶ浜の天明の飢饉」、『地方史・民衆史の継承』一八〇~一八一頁、芙蓉書房、二〇一三年)。天明の飢饉の死者(餓死・疫病死)数とは比較にならないのである。江戸での一九万人余の死亡などというのも、にわかには信用しがたい数字ということになるだろう。

三 その他の東北諸藩における流行

弘前藩以上に史料が手元にあるわけでないが、同藩以外の東北諸藩における安永二年(前後)の疫病流行について把握したかぎりで述べておきたい。
南部盛岡藩からである、『盛岡藩家老席日誌 雑書』の安永二年(一七七三)の箇所に祈祷に関する記事がいくつかみられる(第二八巻、盛岡市教育委員会編集、二一〇二年、東洋書院)。五月一四日条によると、藩が、町方・在々ともに「疫病」が多くあると聞こえるので、永福寺に祈祷を命じることにし、これを寺社奉行へ申し渡している(六八頁)。六月九日条によると、盛岡城下の八幡丁では疫病煩いが多くあり、明後一一日に、八幡拝殿を借りて祈祷の湯立および神楽をしたいとして町内年寄・組頭が願い出、検断が町奉行を通して藩に申し出ていたが、願の通り認められている(八五頁)。六月二〇日条には、明王院の祈祷願いを許可したことが掲出されている。明王院の申し出では、当春よりの「時疫時行」で、守札・護府などを望む「旦家」や「智主」の人に遣わしてきた。しかし、今もって御町(盛岡城下)および近在ともに病人が多く、「旦家」より疫病退散の祈祷を願い出てきたので、来る二六日より来月三日までの一七日の内、明王院預かりの新庄村不動尊を開帳し、「厄神納」の祈祷を行い、参詣人のうち望人へ御守札を出したいというものであった(九一頁)。七月九日条にも、法明院が同様に寺内にある虚空蔵尊を開帳して祈祷、来たる一三日より一七ヶ日勤めたいとする申し出を許可したことが記されている(一〇〇頁)。
これによると、少なくとも八幡丁など盛岡城下やその周辺でも疫病が流行していたことが知られるが、どの程度の感染拡大であったかはわからない。この『雑書』以外では、『幾久屋文書』に安永三年の四月頃より「せいかん」という「やまい」を煩って、あまねく人が死んだとある(宮古市教育委員会編集『宮古市史』資料集近世(五)一八六~一八七頁、宮古市、一九八九年)。幾久屋は盛岡城下に近い日詰に郡山店を開く商人(美濃屋)なので、その近辺の状況ということになる。また、沢内通りの『作柄控』(『沢内年代記』と称するものの一つ)には、安永三年のこととして、「やく病はやる」、「わつらいはやる」、世の中が悪るいと、簡単ながら記されている(高橋梵仙編著『近世社会経済史料集成』第四巻〈飢渇もの上〉一一二頁、大東文化大学東洋研究所、一九七七年)。どちらも安永三年なので、前年以来なかなか終息していない様子がうかがわれる。
八戸藩である。藩の日記に祈祷関係のことが記載されている。『御目付所日記』の安永二年四月一日条によると、疫病流行につき藩命により法霊(内丸法霊大明神)で祈祷が行われ、その祈祷の御守札を在々(廻・各通、代官区)へ下付することになり、八戸廻二〇〇枚、長苗代四一枚、名久井六四枚、軽米二九六枚、久慈二〇四枚、志和一一枚の合計八一六枚、また御町(城下)は一町二枚、在町は一丁(町)一枚の割であった(種市町史編さん委員会編『種市町史』第一巻史料編一、種市町、六二九~六三〇頁)。翌三年にも『勘定所日記』五月一日条によると、この年も在々に「疫癘」がはやり、法霊での祈祷札を昨年と同じ員数を各廻・通へ配布している(同前六三八頁)。そして、同年一二月一三日条『勘定所日記』に、当春以来(安永三年)の「時行疫癘」での病死人数を書き上げた数字が載っている。それによると、八戸廻三四九人、長苗代三一人、名久井通一三九人、軽米通二五四人、久慈通五七四人、となっており、久慈通が最も多かった。試算では合計一三四七人を数える(同前六四二頁)。安永三年の領内総人口は五万一一〇三人であるから(『御目付所日記』一〇月四日条)、死亡者は総人口の二・六%にあたる。感染者は総人口より当然少ないだろうから、致死率はもっと上がることになろうか。
罹患者の実情がわかる史料として、盛岡藩に属した北野牧の野守久慈家文書がある。同牧は飛地で、周囲が八戸藩の久慈通になるのでここにあげておく。安永三年九月二日の昼から野守覚右衛門(名子主)が「正寒引請」煩っていたところ、それより段々に上下大勢が煩い、同一〇月より一一月・一二月・正月・二月・三月まで続いた。一〇月・一一月には脇々の名子が煩い、「牛馬・たきゞ(薪)取」もなく、他家より応援してもらったことが記されているが省略する。この「正寒」は「二度か三度煩かえり」する者が数人おり、久慈八日町の栄仙・幸安という医者を頼んでみてもらっている。利惣二夫婦など病死した者の名前をあげるが、当所は他と比べると随分軽い方だと記している(久慈市史編纂委員会編纂『久慈市史』第四巻史料編Ⅰ、八二五頁、久慈市史刊行会、一九八七年)。
仙台藩については、宮城県史編纂委員会編纂『宮城県史』二二〈災害〉(宮城県、一九六二年)に、「安永二、三年気仙郡の流行病」と題してすでに紹介されている(四九二~四九八頁)。詳しくはそれを参照していただきたいが、流行は気仙一郡に限られ、他の仙台領には波及しなかったという。その確認も必要だが、市町村史をいくつかみたかぎりでは流行をうかがわせる記事を見出せなかった。この「疾疫」で死亡二一〇七人、病者一万三四七三人を数え、仙台藩は医者を派遣し、また自存の難しい者には食料を与えた(『徹山公治家記録』)。
興味を引くのは、同書に引用されている『気仙郡横田村橋ノ上正五郎記』(四九七~四九八頁)である。安永二年正月、上方参詣に末崎村・上有住村や盛あたりから登り、東海道・中仙道で感染し、一〇に三人くらいは上方で死亡し、残った者が半死半生で帰り、そこから在々所々へ広まったというのである。各村の感染状況、修験による祈祷、神社仏閣への参拝、藩派遣医師の不利用(薬代の高さ)については省くが、世田米町では三月一六日より六月朔日までに死亡五一人、末崎・広田・綾里・大船渡・赤崎の五ヶ村では明家が五、六軒ずつも出ていた。死亡の者が出て親類が近所にいても一向に出入りしなかった。とくに横田村に限っては病気見舞などもしなかったので、少々他所より付けられて感染しても、その家だけで収まり、村一円には増えなかった。徹底して接触を避けた効果であった。このように他地域との出入りが無かったため、近くの世田米町の様子も藩の異なる南部釜石のように遠くに聞こえたという。
この疫病が、かつて「享保年中相はやり、当年五十八年之由前代未聞」と記憶されていることも重要である。享保年中といえば、前述の弘前藩では享保二年夏より六年まで「時疫」が三、四年にわたって続いていた。富士川游『日本疾病史』の「疫病」の項には、享保元年(一七一六)の夏、「熱を煩ふ病人」が多く、江戸では一ヶ月に死者八万余人におよび、寺院の墓地に埋葬できず、回向のあと品川沖へ舟に乗せて水葬にしたことが記されている(五五頁)。津軽では一年ほど遅れて流行したことになるが、気仙郡の五八年前の流行というのはこれを指しているのは間違いない。この間、寛延・宝暦の飢饉があり、疱瘡や麻疹などもあったのであるが、それらに打ち消されずに記憶が呼び起こされていた。
さて、上方参詣に気仙郡からこぞって出かけた背景には何があったのか。東海道・中仙道とあるから、伊勢神宮や京・大坂、そして信濃善光寺などをめぐる旅だったのであろう。安永二年(一七七三)から二年前の明和八年(一七七一)は伊勢神宮への熱狂的な「おかげまいり」の年であった。この年には東北地方までは及ばなかったというが(藤谷俊雄『「おかげまいり」と「ええじゃないか」』(岩波新書、一九六八年、五七頁)、東北地方ではやや遅れたもののこうした参詣熱がきっかけになっていたに違いない。
『弘前藩日記(国日記)』の安永二年六月一八日条に、大坊村百性の助四郎という者が当春、伊勢参宮のため登ったが、病気となって弘前藩の江戸屋敷へ来た、藩では掃除部屋へ入れ置き養生させ、快気したため国元へ出立させたという記事がみられる。この者の病気について疫病とは書いていないが、ちょうど気仙郡の者たちの罹患の時期と重なる。前述のように江戸でも品川口・新宿口のことが書かれていたが、全国的な感染経路の一つがおぼろげながら見えてきそうである。
秋田藩ではどうか。ほとんど未調査といってよいが、湯沢の所預佐竹南家の日記に流行を確認することができる(湯沢市教育委員会編集『佐竹南家御日記』第一三巻、湯沢市、二〇一九年)。五月三〇日条に、所々に「はやり病」があると聞こえるので、三日三夜の護摩御祈祷を広大寺(真言宗、南家祈願所、明治三年廃寺)へ山方市之進(寺社取次)を以て命じた記事がみられる。入方料として鳥目(銭)一貫五〇〇文、ほかに供物・胡摩木は申し出次第に渡すとされている(六〇七頁)。
翌日の六月朔日条によると、広大寺からの内々の要望によって「大盤若転読」を仰せつけられ、大盤若修行中に三日三夜の護摩も修めることとなった。それにより、夜番足軽を一人ずつ、ほかに町歩夫一一人を貸し下げ、また料物として二貫五〇〇文、ほかに供物として五穀の類を渡されることになった。広大寺よりは上(南家)へは御守札を献上し、家中や軽き奉公の者まで屋毎に御守札を下され、与下(組下)の御町(湯沢町)へは一町へ一守ずつ下されることに決めている(六〇七頁)。六月六日条に、広大寺大盤若修行の件について、久保田(藩庁)からの呼び出しでその「代」として益子多郎兵衛が出足することになったという記事があるが、詳しいことはわからない(六〇八頁)。
さらに他の藩についても流行事情を知りたいところであるが、現段階では果たせないのでここでとどめておきたい。

四 疫病の症状と特徴

安永二年(一七七三)の疫病は江戸の場合にはその年のうちに終息したようだが、津軽などでは数年にわたってはやり、くすぶった。この病はどのように呼ばれていたのであろうか。史料から引用して述べる場合、やや注意深く括弧をつけてきたが、それらをあげてみると、「疫病」、「疫癘」とするものが多く、「時疫」、「流行病」、「はやり病」、「疫疾」、「正寒(傷寒か)」といったところである。
疫病の症状や特徴はどのようなものであっただろうか。本稿にあげた記録にとどまり、すでに述べたことも含むが、その点に関心を向けてみたい。杉田玄白は『後見草』で、明和四年の感冒と比較して、この「疫癘」の強毒性を指摘していた。
詳しく症状を記しているのは津軽地方の記録である。なかでもC『平山日記』は経過が詳細である。活字化されているが、その部分を紹介しておこう。
①卒に大熱に成り、一向寒熱のふけさめと申無之して、只大熱症にて、②病出しより八日めに必大戦慄来り、ふるい止て大汗出て大便通する者は活、戦慄来ても汗不出者は死す、惣而大熱の内は腹脹なれは、ふるいの後腹中平和に成る侭活る也、戦慄の後平人のごとく病気もなくして、③亦六七日して初のごとく大熱来りて、亦三四日にして戦慄来り大汗出て解ス、かくのごとく二三度相煩候間、④軽き者初発より四十日程にて歩行も成り、重き者ハ五六十日も歩行成かたし、⑤亦極々の死症ハ初発より八九日にても戦慄不来ゆへ熱さめす、弥々腹脹惣身黄にして死ス、亦何程発汗の薬を用候ても一向汗不出者有り、此等ハ死せし也、とかく⑥五十余の者此病を伝染すれば、活る者百人に弐、三人なり、⑦春夏に煩者ハ軽く、秋冬を煩者ハ痢と兼疾故重し、(三六二頁)*丸囲み番号、傍線、読点は筆者、
ここから知られることをまとめてみると次のようになる。①症状はにわかに大熱(高熱)を発することに始まり、それが「ふけさめ」(熱が上がったり下がったりすること)なく大熱が続く。大熱中には腹がはってふくれる(②の箇所)。②発症してから八日目に大戦慄(発作的な身の震え)がくる。そのさい大汗が出て大便の出る者は生存し、汗の出ない者は死亡する。その後は腹もおさまり、平常に戻る、しかし③六、七日も経つと発症時のような大熱がきて、三、四日ほどで戦慄となり大汗が出て熱がさめる。このように二、三度と症状を繰り返す。④軽症の者は四〇日ほどで歩行可能になるが、重症の者は五〇~六〇日でも歩行が難しい。⑤きわめて症状が重い「死症」の場合には、初発より八、九日経っても戦慄がなく熱が下がらず、ますます腹脹して、身体が黄色くなり死亡する(②では戦慄があっても汗が出なければ死亡する)。発汗の薬を使っても汗が出ない例があり、これらは死に至る。⑥五〇歳以上の者が、この病に感染すれば生存する者は一〇〇人に二、三人のみで、高齢者の死亡リスクがきわめて高い。⑦季節性では、春夏(新暦では二月~七月頃)が軽症で、秋・冬(八月頃~一月頃)が下痢をともない重症となる。
このように、「大熱症」であることを基本的な特徴とし、震え、腹脹、大汗(あるいは汗不出)あるいは黄疸の症状が出て、この症状を二・三度と繰り返し、回復には二ヶ月ほどの長期の療養を必要とし、年齢層や季節性も関係したことになる。このような指摘は、A『永禄日記』が「是迄之時疫と違、六七日目ニ大ふるひ大汗出熱解メ、其後三四度五六度、如此くふるひ不出分、大方死候、去々年より如此」(二三八頁)、D『梅田村彦六家記』が、「甚悪症なり、…軽きは四十日重き者は五六十日にして漸歩行する体、死症は八九日にして死る、五十余の者此病を煩ふ時は百人に二三人も快気すべきや、不残死する体にて春夏の内病軽く秋冬相煩候者痢を兼相煩ひ候故」(二二三頁)、F『津軽編覧日記』が、「二度三度も煩返し候」と記し、DはCを縮約したような文章になっているが、認識は共有しているといえよう。盛岡藩の前出『久慈市・久慈家文書』も、「正寒」という病名を使っているが、「正寒二度か三度煩かえり」と、同様の指摘をしていた。
病気の性質そのものというより社会的な問題になるが、すでに江戸の流行のところで述べたように、「下賤」に多いという感染・死亡の身分階層性が特徴の一つであった。『天明事跡 蛛の糸巻』が、安永五年の麻疹流行では「三十以下の人、貴賤となく病ざるはなし」(『燕石十種』第二巻二八九頁)と記しているように、麻疹とは明らかに感染のしかたが異なっていた。このような特徴は津軽地方でも同様であった。B『明実録』に「在町在毎ニ煩出し死亡之者も多く候、士家ニハ入不申候」(一〇三頁)、E『津軽編覧日記』に「御家中には一向無之、町家もすなく只在方斗多ク」、C『平山日記』に「町方ハとかく不足、寺院方ハ病者稀なり、然れは「家居の無掃除なる方此病伝染しやすきか」(三六三頁)、D『梅田村彦六家記』に「此病寺院方病者稀なり、御家中町家には不足なり、在方多く猶小家の者より病初るなり、然者家居の無掃除不浄なるは凡て病に染み易きものなりとぞおもはる」(二二四頁)と、身分階層性が指摘され、なぜ農村の「小家」に伝染が集中するのか、「無掃除不浄」すなわち住居の衛生環境の悪さが関係しているという見方であった。
もう一つ特徴としてあげれば、これもまたすでに述べたことであるが、この疫病に数年にわたって悩まされたことである。津軽や南部地方をみれば少なくとも二、三年、あるいは五、六年も疫病が続いた。江戸の場合には、安永二年のうちにほぼ終息したかのようであるが、その死者数をそのまま信用してよいかは別として、その分を割り引いてみても、江戸民衆が住む町場密集地域で急激に感染拡大し、死者をたくさん出して、終息に向かったといえようか。その点、津軽地方の農村部では、その密集度が違い、人々の接触も遠ざけられたので、感染症の元(細菌あるいはウイルス)が絶えずに長引いたともいえそうである。それは、安永時に記憶に残っていた享保初年の疫病でも同様であって、感冒(風疾)、麻疹、疱瘡、痢病などとは性質が異なり、また同じく疫病とはいっても飢饉(飢え)とは関係のない流行であった。
それでは、安永二年の疫病の原因をなす病原体は何であったのだろうか。ここは当時の医学(漢方・蘭方)の知識がないと踏み込めない領域であるが、同時代の医者がどのように見立てていたのか、前述のように『古事類苑』に引用されていた工藤平助著『救瘟袖暦』を紹介してみたい。平助といえば『赤蝦夷風説考』のイメージが強く、医者としての側面はほとんど着目されていないように思われるが、この医書は、文化一三年(一八一六)三月に『救瘟袖暦 初編』(東都書林、浅草南馬道町桑村半蔵)として出版され、芝蘭堂大槻茂質(玄沢)が序文を寄せている(早稲田大学図書館、一関市博物館所蔵)。ただし、刊行は初編のみであったようで、『古事類苑』引用箇所はその初編には含まれていない。
幸い写本を京都大学附属図書館(富士川文庫)のデジタルアーカイブで閲覧することができたので、その写本(初編・二編のうちの二編)から該当箇所を引いておこう。寛政丁巳(九年〈一七九七〉)春二月の二編「序」の冒頭に、「此編ハ温疫治療成敗ノ事蹟ヲ誌シテ、子弟ニ授ルナリ、温疫ハ時行ナレハ年々ニシテ異同アリ、十年許ニテ一変アル故ニ一定ノ治法ヲ以テ永ク守ルヘカラス、固ヨリ正傷寒ニ異ナリ、傷寒ノ治法ヲ得タリトモ温疫ノ意味ヲ知サレハ人ヲ誤ルコトヲ免レ難カルヘシ(下略)」と記している。温=瘟であるが、温疫は年々変異して、十年くらいで一変、そのために同じ治療方法を長く守っているのではいけない、「(正)傷寒」(一般には腸チフスなどを指すか)とも異なる、といった趣旨のことを弟子たちに向かって注意している。そして二編の最初に「新ニ冷疫ト云ル名目ヲ設ルコト」という項目を掲げ、以下のように記している。
安永ノ初、長夏流行病アリテ、死亡塗ニ相望メリ、其症種々異同アリトイヘト、ソノ始多悪風肌熱水瀉嘔吐、不食ニ起リ、煩渇譫語吐衂血ナトニテ、日ヲフルマヽニ沈重ニ至り、医皆手ヲ束ネタリ、一老医寐ビヱヨリ起リタルトテ、張景岳カ五君子煎ヲ投シテ、□(嘔カ)吐不食煩渇譫語ナトヨク除キ、救療尤多ク、遂ニ疫ヲ治スル一良法トセリ〔人参、白朮、茯苓、干姜、甘草〕、予(工藤平助)モ亦此ニ倣テ得ル所多カリシ、陳皮半夏ヲ加テ七賢湯ト名テ施モアリキ、其後ハ稀ニテ久ク廃シテ用ヒサリキ、按スルニ、ネヒヱト云病名ハ、我邦ノ通言ニテ、寝中ニ冷ニ感セシハ、腸胃中ニ舎ルナルベシ、是故ニ寒熱腹痛水瀉ヲ以テ、ネヒヱノ症トセリ、皮表ニ在邪ト異ニシテ、月日ヲ経テ経ニ伝ルトイヘト、イツマテモ冷ヲ伏シテ熱ニ化スルコトナシ、中寒傷風ト大ニ異ニテ、ネヒヱト云ル一症アルナリ、何ノ国ニモアルヘキヲ、コレニ相当ノ議論名目ヲ見ス、検索スヘシ、総テネヒヱトイヘハ、世間皆軽症トノミ思ヒ居レリ、然ルヲ寐冷ヨリ危篤ニ及ヲ発明セルハ卓見ト云ヘシ、今ヲ以テ思ニ、安永ノネヒヱノ症ノ流行セルハ、瘟疫ノ一症ナルヘク、ネヒヱトノミハ云カタカルベシ、尋常ノネヒヱハ、年々ニアレトモ、危篤ニ及フコトナキニテ観レハ、決定流行疫ノ寝中ヲ犯シテ、腸胃腸間ニ潜伏シテ、悪心不食水瀉赤白痢等ノ症ヲナスナルヘシ、名目ナケレハ、称呼ニ便ナラス、今私ニ名テ冷疫ト云リ、古来寒疫冷疫ノ名アレトモ傷寒ノ別名ニテ、吾カ所謂冷疫ニハアラス、(下略)
この解説をすることはできないが、工藤平助は安永初年の流行病、すなわち同二年の疫病以外にはないと思われるが、その症状について一老医はネビエ(寝冷え)と言っていることに疑問を呈し、「瘟疫」の一種であって、「傷寒」とも異なり、「冷疫」と呼ぶべきだと主張している。「瘟疫(温疫)とは何か、推測が間違っているかもしれないが、変異を遂げる、現今の新型コロナのような、ウイルス性の病原体ということになるであろうか。医学的知見が得たい。

おわりに

二〇二〇年は、新型コロナウイルスの流行年として、年代記・年表に記載されていくことになるだろう。現在、その渦中にある。このような災害に見舞われると、常としてその類似の災害が歴史の忘却の淵から引き上げられ、脚光を浴びる。このたびの感染症ということでいえば、日本でも猛威を振るった近代のコレラしかり、スペイン風邪しかりである。もっと広く、疫病、伝染病、感染症と呼ばれてきた病の歴史に目が向けられるだろう。そこから教訓や安心をその歴史体験から得たいという気持ちが働いている。たいして教訓を生かしてこなかったことにも気づかされるが、それも時が経過すればうやむやにされ、忘れられていく。新たに大きな災害がおこれば、その前の災害が上書きされ、闇に消えていく。必要な対策や予防が取られてこなかったとはいわないが、その繰り返しであったのではないか。
近世史を研究対象にしていると、あるテーマについて、残された史料を使って、同時代のことではないので距離をおき、よそ事のように記述できる。客観的にものごとをみて書くというのは、一般的にはそういうことを指していよう。しかし、今、感染症の最中、近世の疫病に関心をもつとすると、史料に記載された事象の見え方が、平時のときとはかなり違ってくるように思われる。いやおうなしに当事者性や状況性を帯びてしまうからである。突きつけられている現実から、もう一度史料に立ち返り、読み直し、組み立て直す、そういった作業を通じて、現在の体験と過去の体験がいわば共感しあい、見えていなかったことが見えてくるという関係になっている。
筆者自身、近世史の範囲内であるが、飢饉と疫病の関係については、拙著『飢饉の社会史』(校倉書房、一九九三年)で述べて以来、視野のなかに収めてきたつもりである。また、インフルエンザ(感冒)の流行(「「琉球風」の流行、『沖縄研究ノート』5、宮城学院女子大大学キリスト教文化研究所、一九九六年」、蝦夷地・アイヌ社会における疱瘡流行(『アイヌと松前の政治文化論―境界と民族』校倉書房、二〇一三年)について考えてみたこともある。しかし、このたびのコロナ禍のなかにあって、十分な検討・考察であったのか反省させられる。とりわけ、飢饉には疫病が付きもの、といわれてきた。そのことの重みを現在状況からあらためて問わなくてはならないと思う。
長引く疫病やはしか(安永五年)がはやった安永年間(一七七二~一七八一)はどんな時期だったのか。津軽地方を例にとれば(『平山日記』など)、安永の前の明和年間(一七六四~一七七二)は、地震(明和三年)、干魃(明和四年、とくに同五年)、虫付(明和四・五年)など凶災続きであった。明和七年(一七七〇)には「風疾」(蜜柑風)が流行していた。そして、安永二年(一七七三)、極暑になり近年にない豊作であったが、虫付(蝗)により「変作」。同三年、陽気不順より陽気となり、少々虫付(地広虫)。同四年、陽気順、しかし大風(八月一五日)により畑物損。同五年、陽気から不順になり青立多し。同六年、春より六、七度の洪水あるも陽気あり、近年にない豊作。およそこのような経過であった。
明和期を含めてみれば、「陽気」すなわち気候温暖傾向にあって、豊作でありながら干魃や虫付、洪水、感染症に悩まされた時期であったといえる。全国的にも、「はじめに」の冒頭に引いた『徳川実紀』が記載する災害事例と連動している。この温暖期の後にきた寒冷型の天明の凶作・飢饉のような破壊的作用を及ぼすことにはならず、結果的にはむしろ経済社会化が進んだ時期といえるが、温暖化特有の問題がはらんでいそうである。
最近年、地球温暖化にともない列島各地が洪水被害に見舞われている。それと軌を一にしたかのような新型コロナの世界的な感染拡大である。同じ温暖化とはいっても、化石燃料の使用によって江戸時代の気候変動の幅をはるかに超えて気温が上昇しており、いくら土木・治水技術や医学が発達したといっても、高度化・集中化・複雑化した現代社会そのものが大規模災害を作り出しかねないリスクとなっている。飢饉史研究の立場からいえば、右の明和・安永期と現象的に似通っているが、それでは到底すまないような恐さを覚える。

〈付記〉本稿は、宮城学院女子大学・間瀬幸江氏主宰の「声のつながり研究会」(基盤研究C/研究代表者間瀬幸江「災いの時代における主体的叙述―語り・観察・記憶の当事者性に関する領域横断研究―」)において、研究協力者として、二〇二〇年六月一四日(日)、仙台市宮城野区のギャラリーチフリグリを会場に、ZOOMミーティングにより口頭発表したさいの粗原稿を、読めるようなかたちにまとめなおしたものである。八月二日記。