当事者に代わって語ることの意味 20220715 越門第1回

自然災害の被災者の体験談を語り伝えるというボランティア活動があります。この活動にかかわっているある高校生たちが、「災害の当事者ではない私たちに語る資格はあるのだろうか、私たちが語ることにどんな意味があるのだろうか」と自らに問いかけたそうです。私はこれを聞いたとき、まず、なんて真摯な若者たちだろうと感心しました。語り継ぎのボランティア活動に参加しているというだけでもう災害がもたらす現実としっかり向き合っているのに、そのうえ自分たちの活動の意義を批判的に問い直すとは。これはなかなかできることではないですよね。

多くの人の命を奪った災害について語り継いでいく必要性があるのは当然とも言えます。なにより彼女たち自身、語り継ぐことの大切さを確信しているからこそ、貴重な時間を割いて、調査対象への依頼、インタビュー、文章の作成、ディスカッション、そして発信、といった手間のかかる作業をひとつひとつやり遂げてきたのだと思います。そして周囲の大人たちも、彼女たちの考えを理解し、さまざまな仕方でサポートしてくれていることでしょう。そのように誰もがその価値を認めているにかかわらず、それでもあえて活動の意味に疑問を投げかけ、自分たちがある種のナイーヴさに安住してしまっていないか、厳しく吟味しているわけです。信念をもって活動に取り組みつつ、でも一歩引いて客観的に眺める。その知的な誠実さと柔軟さに私は感服しました。

そうして感心すると同時に、この問いかけを哲学的に興味深いものだとも思いました。「ある出来事の当事者ではない者が、当事者に代わってその出来事について語る資格はあるか、また語ることにどんな意味があるのか」という疑問は、誰が、どのように語るべきなのか、という普遍的な問いを投げかけているからです。そしてその問いに答えるためには、語るという行為の主体と構造について根本的に考えることが必要となります。

誰が?という問いを取り上げてみましょう。

当事者は出来事を語る主体として、ある種の特別さをもっています。当事者は、出来事を直接経験した人物としてその出来事について語ります。現場で実際に起こったことや、そのときの当人の心情や思いについては、当事者にしか語れません。そして、当事者が語るこの言葉こそが、記録され後世に受け継がれるべき歴史上の真実であるという了解があります。他方で、代弁者―「語り継ぎ手」という言葉があるようですので、この呼び方を使用します―語り継ぎ手はというと、当事者から体験談を聞きとり、その内容を文章にして残したり、別の人に語って聞かせたりします。このとき、当事者と語り継ぎ手がそれぞれ語る内容にずれが生じてしまいます。

このことが、語る主体としての「資格」や語ることの「意味」について疑問が生じる一因となっているように思われます。語り継ぎ手が完全に透明な媒体となって、当事者の語りをそのまま第三者に伝えることができるのなら問題ないのですが、現実にはそうもいかないでしょう。語り継ごうとする人は、まず当事者にインタビューして語りを引き出し、聴き取った内容を、第三者への伝達という目的を考慮しながら整理します。つまり、編集という操作が加わるわけです。話された事柄の取捨選択は欠かせないでしょうし、さらに、聞く人が理解しやすいように或るストーリーが浮かび上がるような形で再構成されることもあります。そうして出来上がったものは、当事者の語った内容と厳密に同じではありえません。当事者が当事者としての資格の下で語った体験は、微妙に異なる別の話へと変わってしまうのです。良心的で思慮深い語り継ぎ手であるほど、そこに語りの主体の揺れ動きを見て取り、心穏やかではいられなくなるのでしょう。

ところで、真実をありのままに言葉にできているか、そもそも自分にその真実を語る資格はあるのか、という疑問を抱くのは、語り継ぎ手だけでしょうか。当事者もまた、同じ疑問に頭を悩ませるのではないでしょうか。直接見聞きした出来事ならばその真実はおのずと唯一の正しい仕方で言葉になる、というわけではありません。だから、当事者も、聴き手を相手に、何をどのように語ればよいかという難問に直面するはずです。そのとき、当事者は当事者で、「私は語る主体として本当に適任なのか」と自問するのかもしれません。

自分の身に起こった出来事について語る、またその語りを当人に代わって伝える、という行為については、さらにいろいろと考えてみる余地がありそうです。次回からは、ポール・リクールというフランスの哲学者の物語理論を参考にしながら、他にどのような問題があるのかを見ていくことにします。

ではまた。

(明治大学准教授 越門勝彦)

「声のつながり大学」内「声のコラム」 第30回 2022年7月15日放送