書籍紹介・田中水絵『歌(アヤゴ)の島・宮古のネフスキー 新資料で辿るロシア人学者の宮古研究の道程』(ボーダーインク、2022年10月、本体2800円+税)
ロシア人の民族・言語学者、ニコライ・ネフスキーについての、田中水絵さんの『アヤゴの島・宮古のネフスキー 新資料で辿るロシア人学者の宮古研究の道程』を紹介します。この10月に刊行されたばかりです。アヤゴというのは歌、歌謡を指す宮古諸島の言葉です。田中さんは、20数年前沖縄で暮らすことになり、たまたま、ネフスキーの『宮古諸島のフークロア』日本語版の出版記念会の新聞記事を目にしました。これが、ネフスキーとの最初の出会いだったと書いています。寒い北国のロシア人がどうして暑そうな南の島に三度も行って調査したのか、そこから田中さん自身のネフスキー研究の長い旅が始まりました。
ネフスキーは、本書によれば、1892年、明治25年、ロシア西部の古都ヤロスラブリに生まれています。19歳のときペテルブルグ大学に入学し、民族学者レフ・シュテルンベルグに「民族・言語学的方法」を学んだことが、その後に大きく影響をあたえたといいます。1915年、24歳のとき、留学生として日本にやってきます。研究テーマは日本の固有信仰・神道でした。柳田国男や折口信夫、中山太郎、沖縄出身の東恩納寛惇、宮良當壮らと出会い、琉球・宮古への関心を深め、調査に必要な古語・方言についての知識を身につけていきます。なぜ、宮古であったのか、彼らの影響を受けながら、宮古諸島には、日本本土や沖縄本島では失われた風習、言葉が残っていると、考えたからでした。そして、1922年、26年、28年と、宮古諸島に渡り、言葉や民俗、風習を記録し、とりわけ古い綾なる言葉で歌われるアヤゴに引き付けられ、そこに日本の古い信仰の原形を見たのでした。
こうしたネフスキーの宮古研究の足跡を、田中さんは克明に調べあげました。「宮古方言ノート」をはじめとする、宮古研究の先駆者としてのネフスキーについての評伝・伝記となっています。学問や研究がどのようにして始まり、展開していくのか、その点でも興味深いものがあります。
じつは、田中さんと、ある雑誌の編集でお会いするまでは、ネフスキーの名前は、東北地方のオシラサマ研究をした人程度のことしか知りませんでした。オシラサマは郷里にも存在したのですが、とくに研究してみようと思ったことはなく、柳田国男の(『大白神(オシラガミ)考』)に掲載の、柳田宛のネフスキーからの手紙を読んだくらいでした。あらためて、柳田のそれを全集でみてみると、序文の副題に「オシラ様とニコライ・ネフスキー」とあります。柳田からみて、ネフスキーが「日本滞留期間」になしえた、「世界の学問に寄与するような業績」は一つ、二つだけではなく、「宮古島の言語の研究」のように「大切な調査も残されている」としながらも、「特に私たちが伝えなければ、…永古に埋もれて」しまうと気づかわれるのは、「このオシラ様の問題」であったと記しています。ネフスキーは東北地方で調査をしながら、オシラサマについて自らまとめることはありませんでした。柳田はそのことをずっと気にしていて、ネフスキーの調査や着眼を自ら引き受け、発展させようとしたことがわかります。
柳田が『大白神考(オシラガミ考)』をまとめたのは1951年のことですが、1929年にネフスキーが帰国してから音信不通となり、最近、彼が世を去ったという風聞を耳にしています。「言わば終わりを全うせざる友情の悲しき記念」と記しているのは、ネフスキーへのオマージュといってよいでしょう。ネフスキーは1937年、スパイの嫌疑をかけられ、日本人の妻イソとともに銃殺されました。スターリンの粛清の犠牲になったのです。その事実が、ペレストロイカのあと、娘エレーナによって確認されたということも、本書を読んで衝撃を受けたことでした。
(宮城学院女子大学名誉教授 菊池勇夫)
「声のつながり大学」第40回(20221216)放送