書籍紹介 金森正也『秋田藩大坂詰勘定奉行の仕事―「介川東馬日記」を読む―』20220121菊池第4回

 今回は金森正也さんの『秋田藩大坂詰勘定奉行の仕事』という本を紹介します。金森さんは、これまでも秋田藩の政治史や農村、地域産業などにかかわる著書や論文を数多く発表してきました。秋田の冬の名物として、ハタハタずしが知られていますが、このハタハタが江戸時代には、農産物の肥料、ホシカとして製品化され、大坂方面に売られていたことも明らかにしています。この本のなかにも、大坂商人がハタハタのホシカ生産に資金提供していたことが出てきます。

この本のサブタイトルに、「介川東馬日記」を読む、とあります。介川東馬というひとは、藩では身分の高い武士ではありませんでしたが、経済畑の官僚として頭角を現わし、文化・文政から天保の時代にかけて、勘定奉行として30年近くも働きました。35歳のとき、はじめて大坂蔵屋敷の留守居を命じられて、大坂に登りました。米や銅が秋田藩の主な産物でしたが、鴻池、三井、住友、鹿島屋、などといった、大坂を代表する大店の主人や支配人と交際し、国産物の販売や資金の調達などにあたる役目でした。介川は、そうした大坂勤務の日々のことを詳しく日記に書き留めていました。その日記を親しみやすいように読み下し、説明を加えて、地元の新聞に連載したものを、単行本にしてまとめたのが、この本ということになります。

この本を読むと、蔵元など出入りの大坂商人との酒の席、宴会が頻繁に催され、招き、招かれの接待を通して、ものごとがだいたい決まり、めっぽう酒に強くないと、つとまらない役職だったことが、よくわかります。それだけでなく、社交性があり、弁舌がたくみでないと、相手の気持ちをつかむことできなかったのはむろんのことです。

介川が苦労したのは、当時秋田藩は借金財政で、それをどう乗り切るかということでした。大坂商人の借金を踏み倒すわけにもいかないので、利息の引き下げや繰り延べを交渉し、あるいは、あらたな金策のために駆けずりまわり、しぶしぶ大坂商人たちに承知させることでした。出入りの商人たちも、藩の蔵物を独占的に取り扱うことで儲けていましたので、持ちつ持たれつの関係で、落としどころが勝負だったようです。

とりわけ天保4年、1833年の大凶作が秋田藩を苦しめました。秋田藩ではほとんど米が獲れず、領民の食料をいかに確保するかが大問題となり、大坂にいる介川に米の買い付けが重たくのしかかりました。大坂は天下の台所といわれるように、全国から米や物資が集まるところでした。この年は、東北地方にくらべて西日本では比較的米が獲れましたので、西日本の藩が大坂にのぼせる米をいかに早く買い付けるか、東北の他の藩とも競争になりました。米の買い付け値段が二倍にもあがりましたから、大坂商人からのさらなる借金も必要になりました。

さらに厄介なことがありました。大坂は幕府の領地でした。幕府は大都市江戸の食料確保を最優先しようとしますので、大坂の米を江戸に回そうとします。そうすると、秋田藩などはあおりを受けて、買い付けた米の積み出しが制限・禁止され、国元に運ぶことができなくなります。介川は、これでは餓死者が出て大変だと考え、大坂の幕府役人と掛け合います。その際に、藩は幕府から領民を預かっている、その領民を飢えさせないことが幕府に対するいちばんの責任である、藩の民も幕府の民と変わるものでないと、主張しました。これには幕府の役人も反論できず、おおかたの米の積み出しを認めさせることに成功しました。こうした交渉能力は余人をもってかえがたいものだったでしょう。

大坂商人の本音、生の声も拾われていて面白いのですが、これくらいにとどめておきましょう。

本書は秋田の地元の出版社から刊行されています。そのため全国の読者に情報がとどきにくいのですが、地方出版にも良い本がたくさんあります。地域の文化力のためにも、地方出版物にもっと目を向けたいものです。

(宮城学院女子大学名誉教授 菊池勇夫)

ラジオ3「声のつながり大学」内「声のコラム 第20回 2022年1月21日(金)放送

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