森崎和江、石牟礼道子作品における声は、現代にどのように接続されるか。佐藤泉『死政治の精神史』が明らかにする、今、小さき声を聞くことの必然性。 20231103(第27回)

今回は、近現代日本文学の研究者佐藤泉の新著『死政治の精神史』を取り上げ、現代社会に対する著者の透徹した批判意識のもと、新たに照らし出されていく森崎和江、石牟礼道子の「聞き書きの文学」の意義を考えたいと思います。
この著書の問題設定は、2016年に起こった障害者殺傷事件が表面化させたように、生きさせる政治、すなわち「人を有用な人材として形成しつつ生きさせる政治」と、その裏返しとしての、有用性の尺度から、「死んでよく、殺してもよいとする」政治が、そして「死ぬにまかせる政治」、すなわち、自助努力で生きるようにという政治が蔓延していることに基づいています(pp. 7 -10.)。
ここで論じられているのは、近現代日本文学ですが、その中で、海外の2冊の著作への言及に目がひかれます。1冊目は2013年に原著が出版されたロージ・ブライドッティ『ポストヒューマンー新しい人文学に向けて』、もう1冊は2016年に原著が出版されたデヴィッド・グレーバーの『負債論』です。ブライドッティの著作は、作品の分析にあたって直接言及されているわけではありませんが、それでもこの2冊は、ここで扱われている日本の、これまで文学とは扱われてこなかった作品を読み解くための重要な鍵になっていると思われます。
今回は特にグレーバーの負債論を援用して書かれた、石牟礼道子『苦海浄土』についての論文、「果てなき負債の果て』を紹介します。ここではまず漁師たちの生活世界と根本的に異なるものとして、「生の再生産に関わる食のレベルにいたるまでがことごとく市場に包摂されてしまっている」(p. 219.)資本主義体制が挙げられています。そして貨幣が一般的等価物として機能していきます。こうして「海やいのちやあらゆる計算不可能なものが、一般的等価物として計算されて」(p. 230.)いきます。
水俣病では、命と金が等価とみなされました。生活が成り立たなくなっている漁師の家は、きわめて低額であっても契約を結ばざるをえませんでした。命が等価性にさらされていった事態に対して考えるため、佐藤はデヴィッド・グレーバーの『負債論』を援用します。ここで紹介される「原始通貨」は、「どうやっても支払い不可能である負債の存在を承認するための方法」(p. 231.)でした。そうした価値をもった貨幣をおくることは、人と人の関係を新たに打ち立てる「社会的通貨」をおくることを意味しました。
そして佐藤は、「商業経済」と、この負債が示す「人間経済」という異質の経済体制(p. 233.)の衝突として、水俣の問題を考えていくのですが、人間経済が破綻する場所、それをグレーバーは戦争の暴力の場所、すなわち戦争捕虜という奴隷が売り買い可能になる場所だと言います。
この論を踏まえて、佐藤は森崎和江の聞き書き作品『からゆきさん』の冒頭を引用します。少女たちが売られていく、というとき、そのとき少女たちは、肉親との関係を剥奪されているのです。関係が断ち切られてしまっているからこそ、売り買いが可能になっていくのです。
交換できない存在が、交換可能となり、市場経済に飲み込まれていく事態。それが『からゆきさん』や水俣病患者が自らの命を死にさらしながら、直面した事態なのです。
水俣病の補償問題では、この市場経済の論理が交渉の場の中に侵食していきます。それは、佐藤が言うように、共通の基準が設けられることで「この事件の固有の加害者が誰なのか、被害者の一人一人がどんな悲惨をくぐったからは関心の外に置かれる」ことになります(p. 238.)。公正であることは、抽象化するということなのです。言葉もこの抽象化を免れることはできません。
その上で発される、加害者に対する患者の「水銀を飲め」という言葉は、「交換の言葉を通して交換の不可能」を語っている言葉であり、「命は絶対であり、交換できるものではない、抽象化できず、数量化できず、返済完了になどなりえないものがあるのだという声」だと佐藤は述べています。
抽象化、一般化は言葉のもつ宿命です。だからこそ私たちはその言葉の裏側まで聴こうとしなくはならないのです。言葉の表面的なレベルとは正反対の言葉の意味を聞き取ること、それは私たちが「負債を抱え続けている」という意識をもって初めて可能になるのです。グレーバーに依拠しながら、森崎和江、石牟礼道子を読む佐藤泉の論考はそのことを教えてくれます。

【参考文献 佐藤泉『死政治の精神史』(青土社 2023)】

慶應義塾大学 國枝孝弘

声のつながり大学2023年11月3日(金)放送アーカイブ