前回は、ストーリーが実社会で果たしている機能に着目して、その二面性についてお話ししました。今回は、そもそもストーリーとは何なのか、というところから考えようと思います。
ストーリーとは何か。定義するのは難しいですが、ごく一般的に、継起するいくつかの出来事のつながりをよく理解させてくれる語りの形式、と言えるでしょうか。いわゆる起承転結もその一例ですね。異なる時間・場所で生じる複数の出来事をまとめ上げる話の筋道のことです。この語りの形式は、単に出来事をまとめ上げるだけでなく、語られた対象についての意味理解も助けます。というのは、話が特定の形式に沿って語られることで、出来事が全体として何を意味しているのか、何についての話なのかを読者は容易に理解できるようになるからです。例えば、語られた諸々の出来事の主人公は誰なのか、その人はどういう目的で、どういう手段を用いて行動したのか、行動のきっかけは何だったのか、が明らかになるような仕方で語られると、「話がよくわかる」ということになります。そこに予想もできない意外な結末が加われば「オチの効いた面白い話」となります。人に興味を持って聞いてもらったり読んでもらったりするためには、話をわかりやすくかつ面白くする必要があります。そこでフィクションにとっては、ストーリーが重要な要素となってくるわけです。登場人物の行動の動機がさっぱりわからず、事件と事件の関係も全く見えてこない、そんな小説は読んでいて苦痛なだけでしょう。
ところで、今のべたストーリー的要素は、人が事実をありのままに語ろうとするとき、なしで済ませられるものでしょうか。例えば歴史的事件について述べる歴史家は、ストーリーと無縁でいられるでしょうか。時系列で出来事を羅列するだけなら、そこにはストーリー的要素は入ってきません。けれども、出来事のそのような羅列から意味あることは何も浮かび上がってこず、歴史家が何を言いたいのか読み手は理解できません。歴史家は何かを言うために、その事件について何かを説明するために、文章を書くはずです。例えば、どのような経緯で事件が起こったのか、重要な役割を担った人物は誰か、この事件が大きな歴史の流れの中で持つ意味は何かなど、これらの問題に関する自らの解釈を裏付けようとして語るわけです。だとすると、歴史家は、自分が注目する出来事と出来事の因果関係の重要性、あるいは特定の個人の行動の重要性が際立つように、記述するトピックを選び、それらを効果的に配置することに心を砕くはずです。出来事の単なる羅列では、この目的を達成できません。だから、やはり歴史記述もストーリー的要素を無視するわけにはいかないのだと思われます。
20世紀フランスの哲学者ポール・リクールは、著書『時間と物語』の中で、歴史とフィクションの不可分の関係について、「歴史がフィクションから借用するのと同じだけ、フィクションは歴史から借用する」と表現しています。これは、歴史とフィクションが深いところで連続しているからなのですが、両者の共通の土台となっているのが「物語」です。「物語」は、フランス語でrecit、英語ならnarration, narrativeです。リクールはこの言葉を、「出来事の組み立て」と定義しています。組み立ては、諸々の出来事の間に「調和」をもたらすように行われます。つまり、出来事のつながりをわかりやすく示し、全体として何を言おうとしているのかが明確になるように組み立てるわけです。物語という概念は、こうした組み立て形式のみならず、この形式のもとで語る行為や語られたテクストをも包摂する、広い意味合いを持った概念です。
『時間と物語』の「歴史とフィクションの交差」と題された章では、「歴史のフィクション化」と「フィクションの歴史化」が論じられています。そこでは歴史とフィクションが互いに相手から何を借用しているのかが具体的に説明されるのですが、その中で特に印象的なのが、「恐怖による個別化」という「歴史のフィクション化」の一様式です。語ろうとする歴史的事件に対して強い恐怖を抱いている場合、語り手は、フィクション的物語の力を発揮して、その恐怖の原因となっている具体的事実をありありと目の前に浮かぶように記述しようとします。このような記述は、出来事を、比類のない唯一無二のものとして孤立させるよう働く、つまり出来事を個別化する、とリクールは言います。他の同種の出来事と関連づけるのが歴史的説明だとするなら、フィクションを部分的に取り入れた恐怖による個別化はそれに逆行しているわけです。しかし、歴史記述から恐怖を排除することが必ずしも望ましいわけではないでしょう。リクールが指摘する通り、恐怖は語り手にとって決して忘れてはならない出来事と結びついています。忘却を防ぐことを目的とする歴史記述があってもいいはずですし、そのような語りにとっては、フィクションの力を借りた個別化は有効な手法となるでしょう。