歴史の中に眠る死者の沈黙に耳を傾けることについて 20230203(第22回)

 

「ことばにならない声/声にならないことば」。今回は、歴史の中に眠る死者の沈黙に耳を傾けること、と題してお話ししたいと思います。ただし、歴史といっても、歴史の中で名前が消されてしまった人々の歴史です。また沈黙に耳を傾けると言いましたが、沈黙とは音のない状態です。それにもかかわらず耳を傾けるとするならば、その行為にはいったいどんな意味があるのでしょうか。
死者の声が聞こえない。そのことを思ったのは作家エヴァ・ホフマンの『シュテットル』という本を読み始めたときです。ホフマンは、現在はイギリスに在住していますが、もともとは1945年にポーランドでユダヤ人の両親のもとに生まれ、その後カナダに移住し、アメリカで多くの作品を書いています。その作家活動には、本人の出自、遍歴が強く反映されています。『シュテットル』は、イディッシュ語で「小さな町」という意味です。この本は、第二次世界大戦中にナチスの迫害を受けてユダヤ人がいなくなり、消えてしまったポーランド北東部のある町を、ほぼ50年後に地元の若い歴史家が、墓碑や文書を解読して、復元したことを追ったルポルタージュ紀行文です。
その歴史家にとってきっかけとなったのが、ヘブライ語が刻まれた墓石を、墓地ではない場所で見つけたことからです(28ページ)。それはナチスが、ユダヤ人の墓地にあった墓石を、歩道に敷くように命じ、その結果として、道路の敷石としてまだ残っていたのです。そもそもは誰か亡くなった人の墓碑であったのに、その痕跡さえもが消されようとされていたのです。そして亡くなった方の存在が刻まれた墓石の上を、人々は普通に歩いていたのです。
この一節を読んだとき、私が思い出したのはル・クレジオの小説『さまよえる星』です。この小説の主人公であるエステルはイタリアとの国境近くに住んでいたユダヤ人の家庭の少女です。ナチスの迫害によって、地中海へ、そこからイスラエルへ、そして戦後はカナダへと渡ります。まさに「さまよえる星」としての人生なのですが、そのエステルは、イタリアへ逃げる途中、エステルに好意を寄せるジャックから戦争の話を聞いているうちに、死がこの世界にくまなく存在することを感じます。文章を引用します。

エステルは、それ(戦争の話)を聞くと、空に、石の中に、松林に、糸杉の木立の中に輝く死を見出した。死は光のように、塩のように、足もとに、わずかな土地の中に輝いていた。「わたしたちは死者の上を歩いているのね」とエステルは行った。(中略)ここでは白い石がみな輝いている。それらは消えてしまった人々の骸骨だった。(180ページ)

戦争が起きると、多くの遺体が、埋葬されることもなく、またその遺体が誰だったのか辿られることもなく、その土地に眠るがままにされてしまいます。エステルは、戦争によって逃げていく今、過去の無名の人々の死が自分たちを取り巻いていることを強く意識します。
私たちは普段そうした意識を持つことはないでしょう。時代が流れれば、私たちのいまいる世界からは死者が忘れさられていきます。しかしその忘却とは、無関心に他ならないのではないでしょうか。
たとえば沖縄では、沖縄戦の遺骨収集作業に取り組んでいる人々がいます。その姿を追ったフォト・ドキュメンタリー『骨の戦世』には、小説の主人公エステルと同じ言葉が見つかります。夫を戦争で亡くした女性が、沖縄に住む友人に語った言葉です。「私は沖縄の地に降り立つことはできません。戦争で亡くなった人たちを自分の足で踏みつけるようですし、少しでも傷をつけると地面から血がでてくるようで、いたたまれないのです」(26ページ)。
その沖縄で、辺野古での新しい米軍基地の埋め立てのために、沖縄本島南部の土砂が使われようとしています。その土砂には、亡くなった人の遺骨がいまでも埋まっています。その出来事を追った毎日新聞2021年9月9日の新聞記事は「遺骨はどんなに小さくても人間」とタイトルをつけています。
確かに私たちは、亡くなった方の声を聞くことはできない。戦後80年が経とうとしている現在、体験者ではない私たちには、どんな想像をもってしても、その体験に近づくことは極めて難しくなっています。しかし今もなおそこにある遺骨の存在を忘れてしまうこと、その沈黙に耳を傾けようとしないことは、戦争のもつきわめて非人間的な側面をそのまま認めてしまう、私たちの怠惰な姿勢の表れではないでしょうか。

参考文献
エヴァ・ホフマン『シュテットル』(みすず書房 2019)
ル・クレジオ『さまよえる星』(新潮社 1994)
比嘉豊光 西谷修編『フォト・ドキュメント 骨の戦世 65年目の沖縄戦』(岩波書店 2010)

慶應義塾大学教授 國枝孝弘

「声のつながり大学」2023年2月3日(第43回)放送