滝口悠生『水平線』における漂う声を聞く。 20230303(第23回)

今回は、2022年7月に出版された滝口悠生の長編小説『水平線』を取り上げ、この作品の全体を通して流れている声の特徴の一端を明らかにしたいと思います。

小説の概要を説明するときに、挙げられるのは主に舞台設定、主人公、ストーリーラインでしょう。とはいえ、この3つの要素で小説の外枠は把握できたとしても、それだけで小説自体を理解したことにはなりません。特に滝口悠生の小説は、今述べた舞台設定、主人公、ストーリラインが、固定されていない、もっと言えば「不明瞭」であることに特徴があります。

たとえば舞台設定は、一応は、硫黄島、父島、東京都内、そして沖縄です。ただ最初読んでいても、たとえばどの島にいるのか、不明瞭でなかなかつかむことができません。
主人公は、現代に生きる兄と妹と言えるでしょうが、その兄と妹の母方の祖父母とその兄弟も主な登場人物です。親族は硫黄島の出身ですが、戦争中に、祖父の弟2人は硫黄島の残り、戦場となったこの島で命を落とします。祖父と祖母、そして祖母の家族は硫黄島を強制的に移住させられます。戦後家族は民宿を軌道に載せ、生活も落ち着いてくるのですが、その時に祖母の妹が突然蒸発してしまいます。
そして今現在に、このおそらく死者となったその大叔父、大叔母が現れます。大叔父は妹に電話をしてくる。大叔母は兄にメールを送ってきたりするのです。この現実とフィクションの混濁の中で、今現在を生きているという意味では、確かにこの兄と妹が主人公なのかもしれませんが、先祖とのつながりを考えれば、家族、一族こそがひとつの主人公だとも言えます。
そしてストーリーラインがあいまいなのは、今述べたように、過去の人間が姿は見せなくとも現在へと侵入するように、この小説ではたえず、現在から過去へ、過去から現在へと時間軸が目まぐるしく変化するからです。
こうしたあいまいさに拍車をかけるのは、滝口作品の特徴のひとつである、「人称の移動」です。三人称で描写されているが、いつしか主語は「わたし」となり、私の視点で語られ始めたりします。この人称の移動がきわめて巧妙に仕組まれており、読者は気づくと視点の変更を体験していることになります。人称だけではありません。佐々木敦は本作の書評の中で、「話者の転換、視点の移動、時制の変異、虚実の混乱」と滝口作品の特徴を挙げています。そして佐々木はそれらを切り分けることが重要なのではなく、「声に耳を傾けているだけでよい」と述べています。
このような小説の構成は、ある声の持ち主がいったい誰なのかという問いをあいまいにしていきます。たとえば小説中には次の一節があります。祖父の弟の一人、達身の友人重ルの言葉です。「確かに自分はそう声を出した。けれども自分で言ったというよりは、誰かがそう言った声を聞いたような気持ちだった。」(p. 326.)
この作品を書くために、滝口は、硫黄島に暮らした人々についての数多くの資料にあたっています。ただし、小説内には、そうした人々の声が忠実な記録として書かれているわけではありません。今見てきたように、むしろ声の持ち主がわからぬように、あるいは誰でもあるように構成されているのです。声の所有性を強く押し出さないのは何のためか、それは過去と現在、当事者と非当事者が断絶をせず、声を介してつながりうる可能性を求めたためではないでしょうか。
小説の最後に次の言葉があります。

「そんな海の上で時間がひとつところにとどまっているわけがない。海はあらゆる時間にもつながっているんだ、海を見てれば誰だってそのうちそう気づいて気づいたときには遠い時間が波にのって寄せてくる。いつかどこかの誰かの声が届くこともある。そしたらどうするか。自分の声も返す波にのせて、いつかどこかに漂わせればいい。」(p. 450.)

ここには時間も場所もゆるやかにつながっている、海が象徴する小説の世界があります。その小説の世界では、人々はお互いの声を響かせているのです。こうしてつながりを実感することに、倫理的な要請から少し自由になりながらも、それでも今いる自分の時間・場所を離れて、かつて確かに声を持って存在していた人々とつながり続けようとする可能性が、小説という世界だからこそ、明示されているのではないでしょうか。

慶應義塾大学教授 國枝孝弘

「声のつながり大学」2023年3月3日(第45回)放送