演劇作品の上演台本の修正と作品の受容の問題 ~ジャン・ジロドゥ作『シャイヨの狂女』の初演台本をめぐって~ 20230120間瀬第二回

今日は、フランスの20世紀演劇史をひもときつつ、演劇作品の上演台本の修正と、それに関連する作品の受容の問題を、1945年にパリで初演された、ジャン・ジロドゥ作『シャイヨの狂女』を例にとって考えたいと思います。
フランスの劇作家ジャン・ジロドゥの最晩年の戯曲『シャイヨの狂女』は、1945年12月22日にパリのアテネ座劇場にて初演されました。物語の舞台はエッフェル塔の見える位置にあるパリのカフェです。主人公は、市民に「シャイヨの狂女」というあだ名で呼ばれる高齢の女性で、本名をオーレリイといいます。当時まちなかでよくみかけられた、実在の女性たちがそのモデルだったと言われます。設定は、一見平和に見えるパリが、実は目に見えぬ拝金主義者たちにすっかり侵略されている!というSFじみたものです。オーレリイは、大道芸人や屑屋、花売り娘など、日銭を稼ぎながら暮らす仲間たちからその惨状を聴き、この「悪人たちすべて」をひとりでパリの地下の洞穴におびき寄せ、亡き者とします。非常にファンタジックです。
さてこの戯曲のなかに、「汚らわしい男」Sale monsieurという名の人物が出てきます。彼は、オーレリイが自分の友人の二人、コンスタンス、そしてガブリエルのことを話題にするたびに、そこに割って入り、「ああ、あのパッシーの狂女!」「ああ、あのサン・シュブリスの狂女」と二人を侮蔑的に呼ぶ、とジロドゥはト書きに指定しました。パッシーとサン・シュプリスはいずれも、パリの通りや区画の名称です。
パリ国立図書館に所蔵されている初演の時の演出ノートを見ると、この「汚らしい男」の役は、上演時は削除されていたことが見て取れます。そして、侮蔑的な調子で、というト書きも削除したうえで、残った台詞を、オーレリイのいわば腹心のような存在である、カフェの若い給仕係が発語するようにしました。むしろある種の敬意や憧れのこもった「パッシーの狂女!」「サン・シュプリスの狂女!」と発語されたかもしれないこのセリフは、ひょっとすると、歌舞伎の大向こうからの掛け声にも似た高揚感さえ、客席に与えたかもしれません。
ところで作者のジロドゥはこの舞台の上演はもちろん、舞台稽古さえ見ることはありませんでした。この戯曲が執筆されたのは1942年から1944年、ドイツによる占領時代です。ジロドゥはパリ解放の半年余り前の1944年1月に亡くなりました。1944年までのフランスの都市はどこも、物資や食料が不足し、配給では足りずに闇取引が横行し、ユダヤ人排斥をはじめとする人種差別やレジスタンス活動で、密告される危険と背中合わせでした。そして、戦後となる1945年末というと今度は、多くの対独協力者への制裁の時期をへて、法による裁きが始まっていたころにあたります。占領時代のフランスにあって、対独協力は、意図や自覚の有無を問わず、すくなくとも構造的には、多くの人がその当事者でもありました。アテネ座劇場の観客は、戦後の粛清の時代の真っただ中にあって、うしろめたさや罪悪感をはねのけるようなこのファンタジックな勝利の物語に酔いしれたのでした。
大喝采の劇場の外に、現実のパリの路上で「狂女」のあだ名をつけられながら日々を送っていた女性たちが、実際にはどのような人々だったのか、どんな声をしていたのか。そのことを知ろうとし、あだ名ではなく彼女たちを名前で呼ぼうとし、その名で彼女たちに呼びかけようとした人々は、喝采した観客のなかに、どのくらいいたのでしょうか。すくなくとも、給仕マルシャルよって発語された、明るく敬意の込められた「パッシーの狂女!」ではなく、削除された「汚らわしい男」によって発語されたかもしれない、「ああ、あのパッシーの狂女!」という侮蔑と嘲笑の表現のほうを、観客たちは、劇場のそとで、自分のことばとしていたのではなかったでしょうか。
演出家ルイ・ジュヴェは、自由な時代が戻ってくる日を絶望的に願いながら書かれたであろうこの遺作の上演を実現しようと、奔走しました。上演準備の過程で、「汚らわしい男」を削除しそのセリフの抑揚を変更して、カフェの給仕に発語させました。私たちはその加除の記録を当時の時代の文脈において見つめることで、ひとつの問いに行きつきます。すなわち、分断の時代の苦しみや痛みや寄る辺なさを、歓喜と喝采によって乗り越えようともがく人々が、我知らず踏み台とした、声を聴かれぬままに美化され祭り上げられる人々がいたのであると。そしてその人々は、どんな声で、何を思い、誰の娘で、どんな暮らしをしていたのだろうかと。80年近いときを経た今改めて私たちはようやく、その問いにたどり着くのです。

(宮城学院女子大学准教授 間瀬幸江)

「声のつながり大学」内「声のコラム」 第42回 2023年1月20日放送