病いとことばー聞こえることばの向こうに、ことばにならない声を聞くー 20210416放送(第2回)

 病をわずらう人々が声を発するとき、そのことばの向こうには、ことばにならない思いがひそんでいる。そんなことに気づいたのは、若林一美『<いのち>のメッセージ – 生きる場の哲学』(ナカニシヤ出版)を読んだ時のことです。

 

 よく入院をしている人たちは、病院食に不満をいう。味付け、食器、食事の時間などなど。たしかにちょっとした心配りで、人間の心は豊かになるものだが、時によると患者たちは心のなかにある不安や不満を直接言うことをためらい、しかしともかく不満があることを知ってほしくて、もっとも当たりさわりのない食事に文句を言っていることもある。 (70ページ)

病院食への不満は、本当はそのことを言いたいわけではない。本当はその先にことばになっていない気持ちがあるのですが、それは、気遣いなのでしょうか、それともためらいなのでしょうか、ことばになることはありません。しかし私たちが実は聞かなくてはならないのは、そのことばになっていないが、確かに存在する、心の声ではないでしょうか。

病とことば。そこではまた安易な名付けがされてしまうことがあります。例えばフランスの哲学者クレール・マランは著書『熱のない人間』(法政大学出版局)でケアギバー(治療や世話を担う人)について次のように述べています。

 彼ら(=ケアギバー)の多くはおそらく、[…]「弱者の力」を語る時に用いているような表現では、自らを認知していないのである。弱者と呼んでしまう時、そこにはどこまでの声がふくまれているのだろうか。おそらく、家政婦は乳母は、その仕事によって故郷に残されている家族の衣食住を支えることができている時、進んで自らを弱者とは定義づけたりしないだろう。(99ページ)

ことばは、私たちに理解を促し、わかったような気にさせます。しかしその安易なことばによって、本当の声がかき消されてしまっているということはないでしょうか。

病とことばについて最後に取り上げるのは小堀鴎一郎『死を生きた人びと 訪問診療医と355人の患者』(みすず書房)です。著者は訪問診療医として多くの患者の最期をみとってきました。この本のなかで、医者が患者になぐさめのことばを与えるという話がでてきます。そして小堀さんは、「私の言葉が患者にとって果たして慰めになったのか、それは今も不明のままである」(75ページ)と述べています。

私自身、自分の死を悟った人が、最期に医者に感謝のことばを述べる場所に立ち会ったことがあります。確かに感謝の気持ちはあったでしょう。しかしそれ以外の内面の複雑な気持ち、たとえば諦めや後悔のような気持ちも本当はあったのかもしれません。その気持ちを確かめるすべはありません。まさに「不明のまま」なのです。しかし私たちが、ことばを発した人の存在について考えるとは、その声にならなかった声を、聞こえてきた声の向こうにさらに聞き取っていく、その営みを指すのではないでしょうか。

(慶應義塾大学教授 國枝孝弘)