石井美保『遠い声をさがして 学校自己をめぐる<同行者>たちの記録』における声の意味 20221007(第18回)

 今回は、 石井美保『遠い声をさがして 学校自己をめぐる<同行者>たちの記録』におけるさまざまな声の存在の意義について考えてみたいと思います。石井美保は、文化人類学者を専門とする大学の研究者です。しかしこの本は、著者のこれまでの研究書とは性質を異にします。この本は、著者の娘さんと同じ小学校に通う、浅田羽菜ちゃんという一年生の児童がプールでの活動中に亡くなるという出来事が発端です。事故が起きたのは2012年の夏。それから10年間にわたる、今も決して終わっていない、この事故をめぐる当事者の、そして関係者の思いやことば、学校、行政という組織の問題、そして命の意味を深く考察したのがこの本です。

本の冒頭で、著者は、娘を亡くした母親が立ち上げたブログに記された二つの問いに言及します。それは「なぜ」と「どのようにして」という二つの問いです。「なぜ」とは、なぜ子どもを失ってしまったのか、なぜあの子は亡くならなければならなかったのか、という問いです。この問いには答えはなく、遺族は一生問い続けざるえをえません。しかし「どのようにして」は、答えがあります。事故原因を究明して、どのようにして亡くなったのかを明らかにすることはできるのです。

この「どのように」を明らかにするため、遺族は民事裁判を起こします。それが手詰まりになると、第三者委員会の立ち上げを求めていきます。そしてプールでの再現検証が行われ、第三者委員会の報告書が提出されますが、それは「どのようにして」を明らかにするには程遠いものでした。そのため次に行ったのが自主検証でした。こうした事故原因を究明していく努力は遺族だけではなく、まわりの保護者たちも協力していきます。そして重要なのは、子どもたち自身も検証に協力していくのです。

検証時に、羽菜ちゃんの代わりをしてくれた子どもの声を、著者はしっかりと受け止めた上で、その言葉が、「自分自身の感覚だけに基づくものではなく、自分とは異なる性格や感じ方をもった存在して羽菜ちゃんの思いを伝えようとするものであった」と述べています。そしてその言葉は、証言という事実とは位相を異にする「ある種の啓示的な洞察」だと述べます(p. 124)。著者はここに「エンパシー的な理解」(p. 207.)を認めています。

一方「なぜ」という問いには先ほど述べたように、答えは決してみつかりません。遺族はずっと終わらない喪を苦しみ続けます。しかし、名付ける言葉の不在に耐えられないとき、生まれてくるのが「物語」です。たとえば学校で行われる「偲ぶ会」はひとつの「回復の物語」(p.7.)です。その物語は事故を過去のものにしてしまい、「悔恨と反省の上に立って未来へと進んでいくことを促すものだ」(p. 95.)と著者は言います。しかし両親にとって、娘の存在は今もまだここにいる存在です。

この答えのない「なぜ」をかかえつつ、「どのように」を求めていくこと。その時に大切なのは、羽菜ちゃんがどういう子であったかをしっかりと理解することです。先ほどの代役の子供のように、あるいは小学校に上がる前の保育園の先生たちのように、その子のかけがえのなさをしっかりととらえ、そのかけがえのなさをもとに、羽菜ちゃんだったらどういう思いをもってどういう行動をしたかを、くみとってみることです。そしてそこに、子供の生の重みをこよなく大切にする教育の重要性もあります。

もちろん、「どのように」をもとめて行動し、決して思いは弱まることがなかったとしても、答えを見出すことは一向にできません。ただそれでも両親は「わずかでも羽菜ちゃんの存在に近づき、その声を聴き取ろう、と二人はもがき続けた」と著者はいいます。

本書は、この事件に関わったさまざまな関係者、同行者の人々の語りを、わかりやすい意味を与える物語へと還元することなく、「多重的な声のつらなり」(p. 308.)を聴かせようとした記録です。そしてその一元化されない、多様な声が、羽菜ちゃんの存在によって導きだされたものであるならば、それらの声のこだましあうなかに、羽菜ちゃんの声がかすかに聴き取られるのではないか、そう著者は述べて本書を終えています。

(慶應義塾大学教授 國枝孝弘)

「声のつながり大学」2022年10月7日放送