第2回声のつながり研究会報告(20200903)

場所:仙台市宮城野原 ギャラリーチフリグリ+ZOOMライブ配信

プログラム
【前半】報告
間瀬幸江氏(研究代表者)「声のつながり研究会」のめざすもの
國枝孝弘氏(研究分担者)「喪失の声」と物語(histoire)/語り(récit) – 喪失を書く、現代フランス作家のいくつかの事例から -」
安部芳絵氏(研究分担者)「地震ごっこ・津波ごっこは子どもに何をもたらすのか ―対抗遊戯とそこにいる他者― 」

【後半】研究構想発表等
研究発表講評「三つの発表を聞いて」(菊池勇夫氏)
研究構想等発表(越門勝彦氏、今中舞衣子氏、栗原健氏他)
研究会ウエブサイト立ち上げについて

====以下発表等要旨・概要====

◆◆報告:間瀬幸江氏 「声のつながり研究会」のめざすもの (別途報告書作成、サイトにUP予定)

2020年度から2023年度までの4年間、「声のつながり研究会」を発表媒体として、科学研究費助成事業基盤研究C(課題番号:20K00476)「災いの時代における主体的叙述―語り・観察・記憶の当事者性に関する領域横断研究―」が立ち上がった。2019年9月に開催された第1回声のつながり研究会ですでに開始されていた研究が、科学研究費の研究課題として採択されたことで、名実ともに研究チームが動き出したのを機に、この研究会が目指すものを、間瀬の教育実践研究ならびにプロジェクト研究の過去の成果ならびにいくつかの参考文献を引用しつつ言語化した。
教育実践研究としては、2019年度の宮城学院女子大学一般教育科目の「基礎演習」の事例を、プロジェクト研究の事例としては2014年から毎年開催されてきた「宮城学院クリスマスマーケット」の事例を報告するとともに、授業運営あるいはプロジェクトを通した実践教育の担当者としての立場から、教育の当事者(それは学習者である場合もあるし、教員である場合もある。また、教育的営みを成立させようとする数多の文脈に身を置くすべての人々も該当するだろう)たる自分には、互いの声=主体性を尊重しあい、相互に声を聴きあい尊重しあうことがどういうことなのか分かっていないという気付きに言及した。
こうして「声の主体」たることを問うことのゼロ地点を確認した上で、本研究会が、教育・研究に携わる「専門家の不自由性」に埋没するままにならず、「組織に自ら参画する個(声の主体)の自由」を言語化し続けるための行為の中の省察を行い続ける場として機能することを目的に立ち上がったことを確認した。
(本報告の本論は別途準備中につき、後日本サイトに公開予定)

◆◆報告:國枝孝弘氏 「喪失の声」と物語(histoire)/語り(récit) – 喪失を書く、現代フランス作家のいくつかの事例から -」

フランスでは、20世紀後半から、「私」を主語にしつつも、「自己の不確かさ」「他者の不確かさ」を問うテキストが現れてきた。本論では、特に、近親者の死をめぐって書かれる「喪のテキスト」の中で、このような自他の存在の問い直しが顕著になされる傾向があることに着目し、「喪の語り」の特性について考察した。具体的にはフランスの作家ピエール・パシェ(Pierre Pachet 1937 – 2006)が、亡くなった妻について、そしてその喪失体験について書き綴った作品『アデュー』(2001年)を取り上げた。
発表では、まず第一に語りの形式特性を明らかにするため、ナラトロジー研究、記憶研究、物語論などを援用し、物語(histoire)と語り(récit)を対照し、後者に、筋立ての弱い断片的構成、発話の現在性を記述することによる、いいよどみなどの不完全の言述といった特徴があるとした。
続いて、死者は自分について書かれた文章に目を通し、修正や批判を加えることができない以上、生者の言葉、視点によって死者を支配しないことを、パシェが書くことの倫理としていることを指摘した。
その上で、出来事を悲愴化しないこと、解釈を決定せず、ことばの意味を考察し続けること、書く行為はたえざる「試み」であると認識していることにパシェの言述の特質があるとした。このような書き方を選択するのは、人を知るとは、ある一瞬、ある一時期、偶然聞くことのできた小さな語り、すなわちその人についての数限りない断片を通してのみ行われる行為であるとパシェが考えているからである。
だが、この態度は不可知論や相対主義には陥らない。確かに、私たちには、他者の本質は見えず、それを具体的に名指すことは難しい。しかしそうであっても、私たちは、そのときどきの断片を通して、その本質を分有しているのだ。このような他者の本質の感受が可能なのは、パシェが、死者を書くことに高い倫理観をもち、書く形式にきわめて自覚的であることによって、「私」の言葉を通して、その言葉の向こうに、その人の存在が見え、その人の声が聞こえてくるような、語りを模索したからであると結論づけた。

◆◆報告:安部芳絵氏 「地震ごっこ・津波ごっこは子どもに何をもたらすのか―対抗遊戯とそこにいる他者―」

「地震ごっこ」「津波ごっこ」に代表される災害遊びは心理学的には「見守るのがよい」とされている。児童厚生員・放課後児童クラブ支援員を対象とした研修でも同様のことを学ぶ。しかし、支援者自身が被災すると見守ることには大きな困難が伴う。それでも支援者が災害遊びと向き合うとき、その行為は子どもに何をもたらすのであろうか。本発表では、質問紙調査(2018)およびインタビュー調査(2019)を踏まえて、フィクション論の視点から検討を加えた。
質問紙・インタビュー調査から明らかとなったのは、災害後の子どもがひとりで遊ぶことである。災害直後、集団遊びはほとんど見られない。ところが、ブロックを使った地震ごっこ、津波を鬼に見立てる津波鬼ごっこなどがなくなると子どもは他者と遊び始める。このことは何を意味するのか。
シェフェールによれば、フィクションは他人と共有されて初めて意味を持つ(シェフェール、2019:152)。フィクションの成立には「対抗遊戯」として子どもの遊びにかかわる他者の存在が重要である。災害遊びは、ごっこ遊び、すなわちフィクションであり、子どもの被災経験が表出する。子どもはどんなに幼くとも被災の当事者であるが、その体験を言葉ではなかなか語ってくれない。これに対し、おとなは、災害遊びに対抗遊戯として参加することを通して子どもの被災経験を共有することができる。
災害遊びは、子どもに現実世界におけるつながりの回復をもたらす。災害遊びというフィクションにおとなが対抗遊戯としてかかわることは、子どもに他者と遊びなおす場を与える。これはやがて他の子どもたちとの遊びへと拡張していく。災害遊びは対抗遊戯によって、子どもと他者を架橋するのである。
課題もある。フィクションは、「現実の規則が宙づりにされる場」で成立する(シェフェール、2019:150)。しかし、広域災害では支援者自身も被災し、現実の規則が否応なしに遊びへ侵入してしまうことで、対抗遊戯の成立が困難となる。COVID-19によって全人類が被災するなかで、災害遊びの行方はどうなるのか、引き続き検討したい。

◆◆菊池勇夫氏 「三つの報告を聞いて」

唐突な書き出しになるが、報告にあった「人々が考えないようにする」、支配する者の気持ちに立っていえば、これほど都合のよいことはない。民主社会という建前の今の日本であるが、人々がものを言わずに従う仕組みが、気づかずに、いろいろなところで巧妙に精緻になっているのではないか。大学もその片棒をかついでいるとしたら…。「声の主体」は、学生に求める前に、大学人、研究者自身のことであると、あらためて考えさせられた。
なぜ<研究>しているのだろうと思うことがある。大学で働いていると研究と教育はあたりまえの職務であるが、定年退職しても続けているので、大学人であるかどうかとは関係がない。おそらく<研究>したいというのは、趣味、性癖かもしれないが、この「声のつながり」研究会に即していえば、「声の主体」たらんとして、人間社会が抱えている困難・課題と向き合いたいと、考えているからだろう。趣味だけなら飽きたらやめればいいだけだが、そうではない何かがある。使命感などというのでもない、本然的なものではなかろうか。
たまたま歴史学の道に進み、だんだんと災害史や環境史に深入りするようになった。近年の気象災害や大震災がそれを促したことは間違いないが、子どもの頃に聞いた凶作や飢饉についての地域社会共同の「歴史の記憶」のようなものが素地にあるように思う。「津波ごっこ」など、災害遊びを通した被災体験がその後の「主体」形成にどんな影響をおよぼすことになるのか。作家、映画監督など「創作」に携わる人々の仕事、とくに幼少時の戦争体験が起動力となっている、いくつかの作品が思い浮かんだ。
ほぼ同郷といってよい三浦哲郎の『おろおろ草紙』。その「物語」(小説)の素材はよく知られた天明の飢饉記録である。作家の想像力と歴史研究者の仕事との違いはどこにあるのだろうか。史料から声を聴き取ろうとしている点は同じであるし、そして何か「本質」「真実」に迫りたいというのも同じかもしれない。歴史と文学、自明のこととはせずに、そのことも私にとってこの研究会に参加する意味の一つであるように思えた。
吉村昭「鰭紙」(『天に遊ぶ』)という小品は、南部藩の天明の飢饉を研究している経済学者が主人公で、現地の史料調査で実際にありうるかもしれないことを書いている。同様の研究をしてきた私自身にあてはまるかのようで、最初読んだとき奇妙な感じがしたものである。研究者の行動心性すらも、たんたんと真に迫って作品にしてしまうのである。研究会から帰ってきた当夜、NHKBSで武田泰淳の『ひかりごけ』での問いが取り上げられていた。私の意識のなかでは、まだその日の研究会が続いていた。

◆◆研究構想発表:越門勝彦氏 「ポール・リクール『自己の解釈学』を応用した物語る行為を可能にする諸条件に関する研究」

  17世紀にデカルトが確実な知識の基礎としてコギト(考える私)を見いだしてからのち、多くの哲学者はそれに逆らうように、自己という存在の不確かさを指摘し、自己はデカルトが前提していたような同一性や連続性を有していない、と論じてきた。また、言語を重視する現代の哲学者によれば、自己とは、せいぜい、「私」という一人称代名詞の指示対象、あるいはその代名詞を用いて発話する主体、という意味しか持っていない。このように自己の概念が極端に切り詰められた人間観において、それでもなお「私は何者なのか」と問うことに意義があるとすれば、それはどのような文脈においてなのか。こうした問題設定から、リクールは、物語的自己同一性という概念を引き出しくる。彼によれば、「私は何者なのか」という自己同一性の問いがリアルなものとして立ち上がってくるのは、何らかの事情により人が自らの生を連続的、統一的に把握し、そのようなものとして語ろうとするそのときである。そして、人は物語るという行為を通してこそ、自分が或る恒常的性質の持ち主であることを肯定し、自分が同一的な存在であるとの理解に導かれる。リクールはそう考える。
自己概念の豊かな意味を汲み尽くそうとするリクールの「自己の解釈学」を参考にしながら私が取り組んでみたいのは、物語るという行為はどのような条件のもとでなされているのか、という問題である。それは次のような三つの具体的な問いに分けることができる。
・どのような実践状況において、私たちは物語る必要があると感じるのか。そこで他者の存在はどのような役割を果たしているか。
・自らを行為者として、さらには行為に責任ある者として語り、認識するその自己理解は、どのような自己概念・世界観に依拠しているのか。
・物語ることによって見出された自己同一性が「本物」であることは、どのようにして確かめられるのか。

◆研究構想発表:今中舞衣子氏 「ナラティヴに着目したミュージアムの教育活動の研究」

近年、地域におけるミュージアムの役割は拡大している。地域住民の生涯学習や地域の学校の校外学習の場として利用されるのみならず、アートによるまちづくりや、芸術祭に代表されるような観光誘致の牽引役としても、その役割に注目が集まっている。
そのような流れの中で、ミュージアムが提供する教育活動も多様化を続けている。従来ならば学芸員によるギャラリートークや専門家による講演が主流であったが、近年では双方向の対話型鑑賞やアーティストによるワークショップのように、見る・語り合う・つくる活動も多くのミュージアムで実施されるようになってきている。こうした活動は、ミュージアムでの学びが単なる展示物の理解にではなく、来館者ひとりひとりが具体的な経験を通じて物語を生成していく過程にあるという視点を私たちに与えてくれる。メディアの多様化・ソーシャル化に伴い、実社会においてさまざまな場面で当事者としての語りを中心にすえた表現活動が重視されるようになってきていることも、このことと無関係ではない。
このような観点から、ミュージアムにおける教育活動のありようを、ナラティヴというキーワードをもとに記述、分析していきたいと考えている。活動に際して利用される教材・人工物・展示物は、どのような方法で参加者の語りをひきだすようデザイン・選択されているのか。実際の活動の中では、参加者からどのような語りが生まれているのか。本共同研究の枠組みにおいてはその中でも特に、ホロコーストという負の歴史をテーマとした継承教育を行っているショア記念館およびその分館であるドランシー・ショア記念館における教育活動の取り組みについて調査する。
【参考文献】
光岡寿郎(2017)『変貌するミュージアムコミュニケーション――来館者と展示空間をめぐるメディア論的想像力』せりか書房
OECD教育研究革新センター(2016)『アートの教育学――革新型社会を拓く学びの技』篠原康正・篠原真子・袰岩晶(訳)、明石書店

◆研究構想発表:栗原健氏 「デフォーの『ペストに対する適切な備え』(1722年)と死生学」

新型コロナウィルス禍により、ペストやコレラなど歴史上の疫病について関心が高まっている。カミュ以外でペストを描いた文学と言えば、ロンドンにおけるペスト災禍(1665年)を描いたダニエル・デフォーの『ペスト』がよく知られているが、見過ごされやすいのはデフォーが『ペスト』と同時期に著した『ペストに対する適切な備え』(Due Preparations for the Plague)である。
この著作はペスト感染の予防方法、都市封鎖の是非、悪疫流行時の「自宅籠城」の例などを具体的に述べた実践書である。これまで研究者の興味を引いて来たのは、こうした対処法を説明した前半部分であり、後半部は無視されがちであった。後半部においてデフォーは1665年のロンドンに舞台を置き、ペストに取り囲まれたある兄妹が、迫り来る死に対していかにキリスト教徒として心の準備をするかというドラマを、対話形式で描いている。
死に直面する時、人は、自分の人生を覆っていたうわべの飾りが全て剥がれ落ちることを体験する。その時に人が絞り出す声はナマの肉声、心の内奥から出る叫びであろう。同時に、そのような極限状態にある時、人は、「人生の意味とは何か」「人間にとって一番大切なことは何か」との問いかけにも向き合うことになる。これを宗教的に「神の呼びかけ」と見るか、自分の内心の語りかけと見るかは人それぞれであるが、こうした種々の「声」を解きほぐして受容していくことが死への準備である。デフォーは、このプロセスをどのように描いているのだろうか。そこには、現代の死生学の見地からも学ぶべきものがあるのではないだろうか。こうした点を分析していきたい。
「死の準備」指南自体は、ヨーロッパでは中世以来「往生術Ars Moriendi」として知られており、デフォーの著もその伝統に則ったものである。欧米のホスピス関係者の間では近年、「往生術」を現代風にアレンジして末期患者のケアに活用する動きが出ている。デフォーの著からもそのような洞察を汲み取りたい。
【参考文献】
Daniel Defoe (Andrew Wear ed.), Due Preparations for the Plague (1722) and Mere Nature Delineated (1726) (London: Pickering and Chatto, 2002)
Carlo Leget, Act of Living, Act of Dying: Spiritual Care for a Good Death (London: Jessica Kingsley, 2017)