蝦夷地警衛に派遣された盛岡藩猟師(マタギ)―文化期のその一端―
菊池 勇夫
侵掠してくる、あるいはそのように危機を抱いた異国に対して、わが国(日本)がどのように国防的・軍事的に臨んだのか、自国史(日本史)研究ではそのように問題を立てることにおそらくは慣れきっている。たとえば、江戸時代(近世)のロシアに対する蝦夷地警衛はそのような文脈にぴたっと収まる。そして、さほど意識せずに、結果的に国家権力の当事者と同様な視角・感覚をもち、共有してしまう。私自身も国家・ナショナリズムの論理みたいなものを問うてはきたが、「国家史の罠」のように思えて、いいかわるいかは別にして、必要以上に近づかない、深入りしないようにしてきた。そのことより、アイヌ、和人問わず、「民」の歴史を明らかにすることにシンパシーを感じてきた。しかし、民の「小さな歴史」が、国家的な「大きな歴史」から無縁というのではなく、「大きな歴史」によってその人生が翻弄され、全うできなかったことがいろいろとあった。
幕府が対ロシアから蝦夷地の統治に乗り出した前期幕領期(1799~1821)、盛岡藩は蝦夷地警衛を担わされた。当初、箱館・ネモロ(根室)・クナシリ・エトロフへ500人程度の警備兵の派遣が求められた。勤番所などの設営などから始めなくてはならないので、大工や木挽き、庶人といった人たちを「足軽(同心)」並に仕立てて送り込んだ。そうした中に鉄砲猟師であるマタギ(又木などと書く)も含まれていたといわれる(横川良助『内史略』)。だが、マタギがこの時期にはっきりと蝦夷地に派遣されたという証拠はどれほどあるのか、調べなくてはならないと思っていた。盛岡藩庁の家老席日誌である『雑書』をみていると、猟師鉄砲は将軍徳川綱吉時代の諸国鉄砲改以来、藩による厳重な管理が行われてきたので、それに関わる記事がたくさん出てくる。文化5年(1808)年分に、たまたま猟師(マタギ)が「蝦夷地御用」により、クナシリ島などで「病死」した者が14人もいることが見出された。文化3・4年、交易を拒否されたレザノフの部下らによるカラフト・エトロフなどの襲撃事件に対処するために、盛岡藩は幕府から追加の出兵を求められ、正規の鉄砲足軽の不足からマタギの動員に及んだものと考えられる。じっさい、どれほどの人数のマタギが徴発されたかは不明である。
そうしたマタギのことがわかったので、道東のアッケシ(厚岸)に小奉行として駐留した菊池作左衛門『蝦夷日記』の記述をみてみると、『雑書』に出てくる右のマタギの名前のうち5人を確認することができた。いずれもクナシリ島で死亡し、その名簿がクナシリからアッケシに届いたのである。ただし、名簿にはマタギとは書いておらず、「在御同心」とあるだけなので、すぐにはマタギとは判断できない。死因の症状をみると、腫れ、紫斑、歯爛れ、などと簡潔に記してあり、水腫病・青腿牙疳といわれた、当時は原因不明のビタミンC不足による壊血病であった。警衛もままならず、病との戦いであった。弘前藩、仙台藩なども同様の病魔にあった。
アッケシには前期幕領期、幕府によって国泰寺という官寺が建立された。その過去帳のなかにも、その5人の名前が戒名、月日とともにクナシリで死亡したことが記載されていた(『新厚岸町史』資料編2)。盛岡藩勤番隊の頼みで、卒塔婆を立てて供養した。『雑書』の記事にはじまって、ここまで追跡できたことになる。
マタギたちは、イノシシやシカ、あるいはオオカミの獣害に悩まされる村・地域の要望に応えて、その駆除のために夜中も出て働いていた。とくに山間の村の農業にとって、獣害から作物を守るのになくてはならない猟師鉄砲だったのである。それがロシア船来寇に対する警備隊として動員され、遠い「異国境」へ行き、その地で命絶える者も出ることとなった。その後も、戊辰戦争にいたるまで、マタギは盛岡藩の軍事力の一部として使われていくのである。マタギの歴史の一端であった。
*後日、史料をきちんとあげて、小論文のようなかたちでまとめようと考えています。
(東北芸工大学客員教授)
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第3回「声のつながり研究会」 日時 2021年5月16日(日)13時~15時遠隔開催
内容
13時05分~14時(発表30分程度、質疑25分程度)
菊池勇夫「蝦夷地警衛に派遣された盛岡藩猟師(マタギ)―文化期のその一端―」
15時05分~15時(同上)
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