紹介・高瀬正『江戸の災害碑』(個人刊、2020年)20210716 菊池第2回

今日のテーマは、災害で亡くなった人たちの供養塔についてです。長年、埼玉県を中心に災害碑を調べている高瀬正さんより、『江戸の災害碑』という冊子をいただきました。副題に「江戸のひとびとは何を望み 何を願ったのでしょうか」、とあります。「資料を調べて、現地へ行き、確認する」、ということを基本に、今も東京に残る、江戸時代の災害碑を探訪してまとめたものです。1657年の明暦の大火、別名振袖火事、1772年の目黒行人坂(ぎょうにんざか)の火事、1783年の天明浅間山噴火、1786年の関東大洪水、1807年の隅田川にかかる永代橋崩落、1837年の天保の飢饉、1855年の安政大地震、などの災害供養碑が紹介されています。
これらの災害碑のなかには、私も以前訪ね、記憶に残っているものがいくつかあります。振袖火事の火元であった、本郷丸山の本妙寺は、現在は豊島区巣鴨に移転しています。都立染井霊園に隣接し、染井はサクラのヨメイヨシノの発祥の地、巣鴨は菊造りのさかんなところでしたので、その面影をたどるついでに、本妙寺の振袖火事の供養塔や、染井霊園にある有名人の墓碑なども巡ったものです。
江戸時代、江戸の町で最大の犠牲者を出したのは、よくわからない疫病を除くと、たぶん明暦の大火でしょう。数万人から10万人の死者といわれています。両国にある無縁寺回向(えこう)院はこの犠牲者を供養するために建立され、境内には明暦の大火などの横死者の供養塔があります。江戸は人口100万という巨大都市でしたから、とくに火事による被害が甚大になり、ほかに目黒行人坂の火事でも1万9000人ほどが犠牲になったといいます。
今日、とくに取り上げてみたいのは、天保の飢饉関連の供養塔です。昨年3月、宮城学院女子大学のキリスト教文化研究所『研究年報』に、「江戸に向かう奥羽飢人(きにん)」と題した論考を書きました。飢人、飢えた人のことですが、これとふかく関係しているからです。高瀬さんは、板橋区赤塚の乗蓮寺、世田谷区北烏山の多門院、品川区北品川の法禅寺、おなじく品川区南品川の海蔵寺、足立区千住の金蔵寺(こんぞうじ)の、5カ所の供養塔を紹介しています。乗蓮寺は、移転前は、中山道の板橋宿にありました。また、多門院は、甲州街道・青梅街道が分岐する、内藤新宿の西隣、角(つの)筈(はず)村にあったそうです。むろん、品川宿は東海道、千住宿は奥州・日光街道です。品川・板橋・千住(せんじゅ)・内藤新宿の4つの宿(江戸四宿(ししゅく))は、江戸から出る主要街道の最初の宿場になります。そうしますと、高瀬さんが調べて歩いた天保の飢饉供養塔は、いずれもそうした、江戸の4つの宿にあったということになります。では、なぜ、そこにあるのか、ということです。
私の論考は、天保の飢饉の際、飢えた人々が、東北地方の盛岡藩や仙台藩などから、食料のあるところに向かって流民(りゅうみん)化し、その一部は関東、さらには江戸に入り込んだことに関心を向けたものでした。1837年、天保8年のことですが、幕府はそうした地方・田舎からやってきた飢人が、江戸市中を徘徊することは治安上よくないと考えて、江戸への入口である4つの宿に「御救(おすくい)小屋(こや)」を設けて、そこで一時的に面倒をみて、それぞれの出身藩に引き渡すという対策でした。幕府はもともとの江戸の住民と区別して、他国の飢人は人返しといって郷里へ戻すのを原則としていました。しかし、市中で行き倒れになり、あるいは、保護されても、4つの宿の御救小屋で力尽きてしまう者が多く、近くの寺院に埋葬されたのだと想像されます。
そのことがわかりましたので、私も、東北地方から入り込んだ飢人と関わりが深そうな、千住の金蔵寺や、板橋の乗蓮寺の供養塔を訪ねました。しかし、品川宿や内藤新宿までは及びませんでした。品川の法禅寺の「流民叢(くさむら)塚(づか)」の碑文には、4つの宿の御救小屋のことが誌され、この寺には餓死者411人、ほかに100人余が葬られた、とあります。執筆の前に訪ねておけばよかった、と悔やまれます。これらの供養塔から飢饉死者の出身地まではわかりませんが、東北からはるばる江戸へ向かい、そこで命尽きた人たちも含まれていたことは確かでしょう。

*参考文献 拙稿「江戸に向かう奥羽飢人―天保七・八年を中心に―」(宮城学院女子大学キリスト教文化研究所『研究年報』第53号、2020年)

(宮城学院女子大学名誉教授 菊池勇夫)

ラジオ3「声のつながり大学」内「声のコラム」2021年7月16日放送

 

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