紹介:北原糸子『震災と死者―東日本大震災・関東大震災・濃尾地震』(筑摩書房、2021年)20210416菊池第1回

はやいもので、東日本大震災から十年が経ちました。十年が一つの節目、区切りであるかのように報道され、出版物も刊行されています。第一回はそうしたなかから、北原糸子さんの『震災と死者―東日本大震災・関東大震災・濃尾地震』を紹介してみたいと思います。この一月に、筑摩書房から、筑摩選書の一冊として刊行された本です。
北原さんは、安政江戸地震を扱った『安政大地震と民衆』という著書を出版して以来、近代日本で発生した突発的な大災害について、災害社会史という観点から、もう何冊も本を出されていますので、それらを読んだ方もいることでしょう。
今回、『震災と死者』という本を取り上げたのは、歴史研究者としての眼がどこに向けられているか、という関心からです。本の帯に、「東日本大震災から一〇年、死者がどう扱われてきたかは、メディアも遠慮がちにしか報じていない」と、書いています。そして、本文では、災害による死者の埋葬について記録されたものが極めて少なく、「死」は社会から隠されていく、と述べています。被災した多くの自治体では大震災の記録誌をまとめてきましたが、そこでは死者の記述が乏しく、なかには犠牲者や行方不明者の数を示すだけのものもあり、死者というより、生存者への対応に重点が置かれている、と指摘しています。しかも、時間がたてば、記憶が薄らいでいくことになります。
北原さんは、それではいけないと考えて、実際に犠牲者の遺体の処理に関わった人たちから直接聞き取り、発見後の遺体がどのように扱われたのか、死者の行方を記録に残しておこうとしたのです。そこから、死者に関わる問題群をあぶりだしています。避難所への誘導、遺体の捜索・収容にあたったのは消防団の人たちであったこと。安置所の遺体はひとまず仮埋葬の土葬にし、再び掘り起こして火葬にしたが、仮埋葬は民間へ委託され、葬祭業者が担ったこと。僧侶・寺院が果たす社会的役割、心のケア、政教分離の原則と宗教の公共性という問題。遺体の捜索・安置・埋葬に関与した人たちの過酷な体験。そして死者の尊厳、といったことなどです。
近代の日本では、1891年の濃尾地震で7000人、1896年の明治三陸津波で2万2000人、1923年の関東大震災で10万5000人、という大量死がありました。その頃は土葬が中心でしたので、火葬に関わる問題がなく、それが東日本大震災と大きく異なっていたと指摘されています。
私自身は、江戸時代の飢饉のことを調べてきました。災害の悲惨さは生き残った者たちによってしか語られません。そこでは飢饉をどのように乗り切ったのか、そして復興に取り組んだのか、ということが中心になります。しかし、生きることを断たれた者たちの最期について、死体の扱われ方、葬送、供養の問題を含めて想像力の働くことが、飢饉の本当の怖さを知るうえで欠かせないことと考えてきました。北原さんのお仕事をふまえて、今後も、飢饉の死者の無言の声を聴く、そうした作業を自分に課していきたい、と思いました。
いま、オリンピックが「復興五輪」を掲げて、聖火リレーが始まり、開催に向かって突き進んでいます。原発事故で故郷を失い、時間が止まったままの人たちもいます。原発再稼働も決められていきます。「復興」という言葉で括ってしまうと、消し去られ、見えなくなってしまう問題がたくさんありそうです。しかも今、新型コロナが蔓延し、収束がみえません。感染症という、大震災とは別の死者をめぐる問題群があらわになりました。十年ひと昔、とはいっても、記憶にとどめ、忘れてはいけない問題のあることを、北原糸子さんの『震災と死者』は主張しています。ぜひ読んでみたい一冊です。

(宮城学院女子大学名誉教授 菊池勇夫)

ラジオ3「声のつながり大学」内「声のコラム」2021年4月16日放送