自閉症スペクトラムを表現すること。私たちはその声を聞き取れるか。ー エリザベート・ド・フォントネ『夜のガスパール 弟の自伝』を読む。ー 20210604放送(第3回)

フランスの哲学者、エリザベート・ド・フォントネは、動物をめぐる哲学的省察で特に知られていますが、彼女が2018年、84歳のときに出版した『夜のガスパール』は自閉症の弟をめぐるエッセーで、この本で初めて自分に自閉症の弟がいることを明らかにしました。この本を読みながら、自閉症スペクトラムを中心として障がい者の声をどのように聞き取るのかを考えてみたいと思います。
フォントネは、作品の中で、弟をとりまく家族の記憶、その家族の一人としての自分の体験、それだけではなく、西洋の歴史の中で、「障がい者」がいかに扱われ、また自閉症の治療といいながら、実はそれがどれだけ当事者を苦しめてきたかを批判しています。
この中でとくに扱いたいのがことばの問題です。なぜならば西洋において、キリスト教には「最初にことばありき」ということばがあり、デカルトは言葉は精神の存在を明かすものであり、それが動物と人間を区別すると述べています。つまりことばを整え、発話をすることが人間の条件なのです。
それに対して、フォントネは弟との交流に苦しみます。普通にことばを交わすことができないからです。それでもフォントネは「弟のことばは貧しく単調ではあるが、それでも彼は話をする」として、そうしたエピソードにこだわります。
たとえばまだ子供だったとき。

 ある日、ちょうど田舎に着こうというとき、彼はつぶやいた。「うれしいな」。彼の霧の中から、意思疎通がきわめて限られた彼の内なる場所から、突然浮かび上がってきたこのことば、私はこれを贈り物のように受け取った。

またある晩の食事のとき。

 めったに口を開かず、開いたとしてももごもごと何を言っているのかわからなかったのに、この日ガスパールは、はっきりした声で、今まで一度も聞いたことのない、彼自身のきれいな声で、こう口ごたえしたのだ。「好きにさせてよ!」以後、この叫び声こそ、彼の本当の存在の始まりになりえたのに、との思いが頭を離れることはない。なぜこの叫びに期待を持とうとしなかったのか?なぜこのこの叫びを消えていくがままにしてしまったのか?

フォントネは弟を病名で名指すことを極力避けています。それについてはアメリカの批評家スーザン・ソンタグが『隠喩としての病い』で、エイズや癌などの病名に社会が過剰なイメージ(=隠喩)を付与していることを批判し、これらの名から付属物に過ぎない意味を剥ぎ取ることを主張した姿勢と重ね合わせることが可能でしょう。フォントネにも、障がいについて私たちが抱いているイメージから、弟をできるだけ遠ざけ、あくまで人間として描こうとする意思がはっきりと認められます。
このことは何を意味しているでしょうか。人が病にあるとき、「病人」としての存在の「一面」が「全面化」されてしまうということでしょう。もちろん病という事実の面を否定することはできません。しかし、人を理解しようとする行為は、ある一面を見出しながら、その人の多面的な存在に留意をすることが大切なのではないでしょうか。
弟がはっきりとした声で言った一言、それは非常に短い一言ですが、そこにも弟のれっきとした存在があるのだ、そうフォントネは言っているのではないでしょうか。

(慶應義塾大学教授 國枝孝弘)