西成彦『声の文学』における声と文学の関係について 20220304(第12回)

今回はポーランド文学、比較文学を専門としている西成彦の新著『声の文学』を読みながら、本書のタイトルでもある声と文学の関係を考えたいと思います。特に今回取り上げるのは、この本の第3章「文学とオーラルヒストリー」です。なおこの本では言及されている筆者がすべて「さん」づけになっています。それはおそらくは、この本は、そうした人々との直接の、あるいは書物を通した対話になっており、名前が言及されるときもそれはひとつの呼びかけになっているからだと思います。今回の私の話の中でもそれにならって、さん付けで話を進めていきます。
西さんはオーラルヒストリーを「個人の声を通した集団的記憶の語り」であると考えています。この章は、軍艦島、九州の炭鉱における、朝鮮人鉱夫、引き上げ日本人にたいする強制労働から始まり、西さんが関心をもちつづけてきた、日本人の引き揚げ、コリアンの密航・残留の問題について、個々の声という観点から考察をしています。この問題に関心を持つようなったのは作家李恢成(りかいせい、い・ふぇそん(の作品との出会いからということですが、当然ながらそれは小説でフィクション性が強いわけです。
オーラルヒストリーにもフィクションは混じりうるが、資料としての重要性を慎重に説くのが歴史学者や社会学者で、ナラティブ自体が、流動的な性質を持っていることを最初から承知しているのが作家であると述べています。
この流動性が声と文学を考える鍵になっています。西さんはここで2019年11月号の「思想」に収められた論文佐藤 泉
記録・フィクション・文学性――「聞き書き」の言葉について」を引用します。この論文では、女坑夫たちの語りを聞き書きした森崎和江さん、水俣病の表現をもとめた石牟礼道子さんが「聞き書き」と「文学」との区分不可能な領域を切り開いた作家として重視されています。佐藤さんは記録とフィクションの二分法に先立つ「文学性」を、伝達の道具としての言葉ではなく、言語の詩的、ポエティックな次元に求めています。その次元では、言葉は新たなに生成され、それと同時に世界が回復される。その次元に佐藤さんは文学性を求めています。
そして聞き書きにはさまざまな声が響いている。その個人の声を通して集団的な記憶が語られるという立場に立つ西さんは次のように言います。「声は単独性を残しながら、他者にぶつかり、反響を残し、新しい声を呼び覚ましていく」と。新しい声、それは、ある人の声を聞いた人が、今度は自ら声を挙げ、声がつらなっていくということでしょう。
実はこの本は、このように石牟礼道子、佐藤泉、そしてに西成彦の声が反響しあっている本なのです。だからこそ冒頭で述べたように、それぞれの筆者はさんづけで呼ばれている。大事なのは1人の人の声は、誰かの声の中に回収され、消えていってしまうのではないということです。あくまでもそれぞれが声の持ち主として主体性を保ち、声を響かせているということのです。

(慶應義塾大学 國枝孝弘)

===放送音源アーカイブはこちら===