読者という他者を待ちながら~ 「テレーズ・デスケルウ」における  クララの声と気配に託されるもの 20220819(間瀬第1回)

今日は、文や文字に書き記される他者の声と、その声を聴こうとする他者とのつながりについて、考えてみたいと思います。この「他者」とは、資料や散文、日記などであれば研究者がそれにあたるかもしれませんし、文学作品であれば読者、ということになるでしょう。

フランソワ・モーリアックが1927年に発表した小説『テレーズ・デスケルウ』は、作者モーリアックが傍聴したある裁判をもとにして書かれた小説です。主人公テレーズは、女性が子どもを産む道具としてしか居場所を与えられない結婚生活の閉塞感に苦しみ、出来心で夫ベルナールに薬物を投与して弱らせるという行動に出てしまいます。この嫌疑による裁判でテレーズは、世間体を気にする夫の尽力によって無罪となります。無罪が確定したあと、ベルナールはテレーズに、家の中での行動範囲を厳しく制限して束縛し、日曜日の教会には、世間体のために仲の良い夫婦を演じることを厳しく命じます。

妻が自分に毒を盛り続けていたと知りながら、家の対面を保たねばならなかったベルナールには、こうする以外仕方がなかったのかもしれません。

一方、偽証の積み重ねによって有罪判決を免れたあと、夫や家族に否定されながら社会への対面をとりつくろう暮らしに疲弊していったテレーズは、ある日服毒自殺の誘惑にかられます。しかしそのタイミングで偶然、ろうの叔母のクララが亡くなります。テレーズはふと、自殺を思いとどまります。

叔母の死と自殺の回避。意味上の関連をモーリアックが詳らかにしていないこのふたつのことがらはしかし、「テレーズ・デスケルウ」のあちこちにふと触れられる、テレーズに連なる女たちの存在に意識を向ける読者にとっては示唆的です。テレーズは、彼女の祖母の顔を知りません。わかっているのは、祖母がある日ふと消えた、ということだけです。また、テレーズの母は、テレーズが生まれたあと、産褥で命を落としています。生きながらえてきた叔母のクララは、耳が聞こえず「狂女」と呼ばれ家族からからかわれる存在です。こうしてみると、テレーズのルーツとなる女性たちはみな、声を奪われたり、身体を損なったりしています。まるで消しゴムで消されたかのような空白が、そこにはあります。

しかし、クララが命を落とすことでふと消されるのは、テレーズではなく、テレーズの、死にたいと思う気持のほうでした。テレーズは叔母の死体を目の当たりにして、自分はこうはなるまいと思ったのでしょうか。しかしモーリアックは彼女のそうした心理を詳らかにはしません。語り手はただ、彼女の心の声をこう伝えています。「わたしは生きるわ。でも、わたしを憎んでいる人たちの手の中で、生きる屍のように生きるわ。もうそれ以上、なにも見ないようにするわ」

フランスで、無能力者制度の廃止に伴い妻の夫への服従義務が消滅したのは1938年、女性の参政権が認められたのが1944年、男女平等が明文化されたのは1946年。1927年に出版されたこの小説は、女性が自らの声を社会に届かせる仕組みの整わない時代に書かれました。しかし1850年、ファルー法によって女子教育が制度化されてから半世紀以上を経て、女性たちは読み、書き、学ぶことによって自らを社会の中に位置づける言語を少しずつ獲得しつつありました。1920年代のフランスで、自分を「生きる屍」であると気づき言語化しながら、声を聴かれぬ日々を過ごした女性たちは、けしてテレーズだけではなかったと思います。

テレーズが自殺を思いとどまったタイミングが、偶然とは言え、家族からさげすまれ社会を構成する主体としての居場所を持たなかったクララの死の直後であった。タイトル・ロールである「テレーズ・デスケルウ」の命は、やがて名前も顔も忘れられたかもしれなかったクララの死を契機に、継続することになった。名前も顔も人の記憶にとどめ置かれず消えて行っていた多くのあまたの女性たちの群像を背景に、老女クララの名前とその声なき声が、ある輪郭をもって読者に迫り、聴こうとする読者によって聴かれようとするかすかな可能性を、モーリアックは、未来の読者に託したのではないでしょうか。

(宮城学院女子大学准教授 間瀬幸江)

「声のつながり大学」内「声のコラム」 第32回 2022年8月19日放送