迷わなければ、気づかないことがある (書籍紹介:レベッカ・ソルニット『迷うことについて』『Walks』)20210618 安部第1回

迷わなければ、気づかないことがある。
人は、迷うことによってはじめて、自分の立ち位置を問う声を手に入れるのではないか。今日は、レベッカ・ソルニットの『迷うことについて』と『Walks』という2冊の本を手がかりに、声について考えていきたいと思います。

<いつもの道を歩いているとき、道には意識がむいていないかもしれない>
みなさん、道に迷うこと、ありますか。
コロナ禍のなかで、地元を歩くことが格段に多くなりました。地元なので地図などは見ずに気ままに歩きます。行ったことのないお店、あのおうちの生け垣の花がきれいだなぁなどとあてもなく歩く。いつもの道なので、やがて道そのものに意識が向かなくなるのでしょうか。「そういえば、書きかけの原稿のあの部分はこうしよう」とか「来週の授業ではあれをやってみたい」とか、自分の内なる声が思考を占領し始めます。そうすると、いつの間にか歩いていることも忘れ、自分の内なる声との対話に没頭し、ふと気づくと、全く知らない道に出ていたりする、という経験にここ1年で何度か遭遇しました。そして、あわててきょろきょろするのです。迷ったといっても地元ですから、遠くに見えるビルの景色や線路の高架から自分の位置を認識し、ちょっと歩けば「知っている道」に出ることができます。
ここで気づいたのは、迷っていないとき、わたしは道をあまりよく見ていないということです。散歩をはじめた最初こそ、周りをみていますが、だんだんと自分の思考の内に入っていくと周りの景色は見ているようで入ってこなくなります。そしてふとした瞬間に、全く知らない道に出て思わぬ事態に直面したことを認識します。つまり迷って初めて目の前の道を意識するのです。
レベッカ・ソルニットは『迷うことについて』のなかで、「予期できぬものにもとづいて計算すること」について次のように述べています。
「…予め知ることのできないものの働きを認めること、思いがけぬ事態のなかで自分のバランスをたもつ術、偶然と手を携えること、あるいは、世界は本質的に謎を備えていて、それゆえに計算や計画や制御には限界があるということを理解すること。道にもとづく計算という、矛盾と呼ぶほかない試みこそ、おそらくわたしたちが人生でもっとも求められることなのだ」(p.11)。
この世界が予期できぬものであり、そのなかで自分のバランスを保つことの重要性を、わたしたちはこの1年でいやというほど痛感させられています。突如として制御できないものが出現するとき、わたしたちは戸惑い、あたふたとし、迷います。迷うことについて、ソルニットはこう続けます。
「…迷う、すなわち自らを失うことはその場に余すところなくすっかり身を置くことであり、すっかり身を置くということは、すなわち不確実性や謎に留まっていられることだ。そして、人は迷ってしまうのではなく、自ら迷う、自らを見失う。」(p.12)
迷う、自らを失うということばは、ともすればネガティブなこととして突き付けられます。早く脱出しなければ、ここを出なければと焦ります。しかし、その人が迷っているそのことは、不確実性や謎に留まっていられることだとあります。これはどういうことなのでしょうか。
「…わたしの場合、子ども時代にあてもなく出歩いたことは独り立ちの助けになっていたと思う。方角の感覚を身につけ、冒険を知り、想像力を養い、探検への意志を育て、少しばかり道に迷った後で帰り道をみつけだせるようになった。」(p.13)
「…迷った=失われたという言葉には、本当は二つの本質的に異なる意味が潜んでいる。「何かを失う」といえば、知っているものがどこかへいってしまうということだが、「迷う=〔自分が〕失われる」というときには見知らぬものが顔を出している。(略)…一方で、迷う=自分が失われるとき、世界は知っているよりも大きなものになっている。」(p.30)
かつて子ども時代のソルニットがあてもなく出歩き、迷ったことで方向感覚を身につけ、想像力を養い、帰り道をみつけだせるようになったように、私たちも迷うからこそ、自分の声に耳をすませ、物事をよくみて、そしてこれまでとは異なる新しい世界の捉え方をすることができるようになるのかもしれません。
歩くことの意味をもう少しだけ考えてみましょう。ソルニットは、『ウォークス 歩くことの精神史』(※)のなかでこんなふうにも述べています。
「CD-ROM版の百科事典の全面広告だった。謳い文句は「雨の日にも図書館まで歩かなければアクセスできなかった百科事典。お子さまにはそんな苦労をさせたくない。クリック1つで知のすべてをお約束します。」でも本当に教育になっていたのは、雨の中を歩くことだったのではないだろうか―少なくとも、感覚や想像力を育むという意味では。…人生をかたちづくるのは、公式の出来事の隙間で起こる予期できない事件の数々だし、人生に価値を与えるのは計算を超えたものごとではないのか。」(p.21)
雨の中を歩くこと、傘をさしても入ってくる雨粒の冷たさ、勢いをつけて長靴で水たまりを超える瞬間、雨音にかき消される喧噪、そしていつもと同じ道なのにいつもとはちがってみえる風景。雨の中を歩いてこそ、得られる何かがある。この1年、世界のさまざまな場所で、ステイホームが叫ばれ、自由に「歩くこと」ができない状況がありました。だからこそ、「雨の中を歩くこと」の意味が異なる質感を持って私たちに迫ってくるように思えます。
さて、歩くことができないことの意味を、女性の権利に寄せて、ソルニットは次のように述べます。
「歩くことが文化的に重要な行為で、世界における存在様式として不可欠であるとするならば、足の赴くままに好きなだけ歩き出てゆくということができなかった者は、単に運動や余暇の愉しみを奪われているのみだけではなく、その人間性の重大な部分を否定されてきたといえるだろう。」(p.413)
人間性の重大な部分を否定されるとはどのようなことなのか。さまよい歩くことで自分の内から生まれる声とどう関係があるのか。この声と人間の尊厳をつなぐ問いは、次回の声のコラムで考えていきたいと思います。

「道に似て、言葉を一挙に捉えることはできない。聞かれるにせよ、読まれるにせよ、言葉は時とともに開かれてゆく。この語りという時間的要素によって、書くことと歩くことは互いに似たものとなっていた。」(p.448)

※『ウォークス 歩くことの精神史』の原題:Wanderlust /『迷うことについて』の原題: A Field Guide to Getting Lost.
*参考文献
レベッカ・ソルニット著/東辻賢治郎訳『迷うことについて』左右社、2019
レベッカ・ソルニット著/東辻健太郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』左右社、2017

(工学院大学准教授 安部芳絵)

ラジオ3「声のつながり大学」内「声のコラム」2021年6月18日放送 音源アーカイブ↓