震災から10年目の声 20221104(第19回)

今回は東日本大震災から10年がたち、あらためてその体験を直接に、あるいは間接に語る声について考えるために、2冊の本を紹介します。
一冊目は、『10年目の手記』です。この企画はオンラインラジオ「10年目をきくラジオ モノノーク」のコーナー案から始まりました。東日本大震災にまつわる、これまで話してこなかったエピソードを募集し、集まった手記を編纂したのがこの本です。それに加えて、このプロジェクトにたずさわったメンバーの2人、東北を拠点として創作を続けているアーティストの瀬尾夏美と「阪神大震災を記録しつづける会」の事務局長として震災の手記を研究してきた高森順子による、手記をめぐる往復書簡が収められています。手記を書いた人の声、それを読む人の声、そしてさらに手記を読んだ人の声に反響して書簡を交わす人の声。こうしていくつもの声が重ねあわされていきます。この人々の声を介した関係性のなかで、その複数の声の響き合いの中で、私は、震災に対して、自分自身がどのような場所に立っているのか、そして立ちうるのかを意識していきます。震災を直接経験していない、私は決して何かの中心に身を置くことはできません。それでも、さまざまな言葉の断片や、人々のささやかな思いに耳をそばだてることで、私は自分なりの記憶を作っていくのだと思います。
ある手記を書いた方が「執筆背景」で次のように記しています。「この10年間で建物や道路や街が新しくなり表面上の復興は進んだけれど、人々の心の揺れはまだ続いています。」10年という時が流れても、終わってはいない。何かが終わったと見えても、それは終わらせただけなのです。私たちが耳をそばだてるのは、起きたことを記録にとどめるだけではなく、今現在の声をも聞き取り、今も生まれ、そして形を代えていく、記憶の変容につきそい続けるためなのです。
2冊目は、文芸評論家藤田直哉が編集する雑誌『ららほら』です。この雑誌の創刊号が出版されたのは2019年です。この時は震災の当事者が書いた言葉が収録されています。編者が直接現地に赴き、出会った人に書いてもらった手記が中心です。それに対して2021年に出版された『ららほら2』は東京で活動する文芸にたずさわる人々との対話が収められています。創刊号は「震災の現場で震災を体験した人が、自らの体験を語る」内容が中心であり、第2号は「震災の現場にいない人々が、文学の言葉によって震災を語る」という違いがあります。体験を語る言葉が、その体験を伝えることを目的とする比重が大きいとするならば、文学は、フィクションという構造を取ることで、具体的な体験そのものではなく、作品構造を通すことで、より普遍的な意味を伝えようとします。藤田によれば、2011年以降の文学は、ディストピア小説、語ることの困難や倫理というテーマの小説、そして歴史とか痕跡をどう伝承するかという問題をあつかったものに分けられると述べています。
文学において問題になるのは、当事者の言葉と文学の言葉の関係です。たとえばいとうせいこう『想像ラジオ』について、評者の一人矢野利裕は、「社会に声が届くことの意義、その声が届くことに誇りや敬意を抱くこと」、この水準から小説を見るべきだと述べています。その一方で、北条裕子「美しい顔」では、剽窃の問題、もう少し踏み込んで言えば、当事者の声の収奪ということまで言われました。
小説という形になったとき、声はそのまま伝えられるわけではなくなります。その声に何らかの意匠を施すことにより、声を増幅し、より広く社会に伝えようとします。またそのときの条件のひとつは、先ほど述べたように、その声の内容に、私たちにもあてはまりうるような普遍性をこめることです。しかし増幅した声は、そして普遍性の中に引き寄せられた声は、はたして最初もっていた、取り替えの聞かない固有性を維持しつづけているか。その声の持ち主のかけがえのない存在をそこにとどめているのか、文学には、こうした反省的な問いがつねにつきまとっているように思います。

慶應義塾大学教授 國枝孝弘)

「声のつながり大学」2022年11月4日放送