自分自身について物語ることは「私」のあり方をどう変えうるか (書籍紹介「自己への物語的接近 家族療法から社会学へ」)20220218越門第4回

自分自身について物語ることは「私」のあり方をどう変えうるか

書籍紹介「自己への物語的接近 家族療法から社会学へ」浅野智彦著( 勁草書房、2001年)

私はこれが四回目の登場となります。これまでをざっとおさらいしたいと思います。

第一回は、声のもつ不思議さを皆さんと共有するために、音としての声はどのようにして意味を持つのか、という哲学的な問いをテーマにしました。声も音の一種であるという、当たり前だけど普段は気に留めないでいる事実に気づいてもらったうえで、では、物音と声の違いはどこにあるのだろう、声は言葉となり、意味を持つけれども、それはどのようにしてなのだろう、と問いを投げかけてみました。

第二回は、その問いに答える、というわけではないのですが、いくつかアイデアを示してみました。松永澄夫氏の『音の経験』という本を紹介し、それを参考にしながら、声が言葉となって意味を持つために欠かせないと思われる特徴をいくつか挙げてみました。その中の一つが、声を受け取る他者の存在です。人がほかのだれかに向けて声を発するとき、私はここにいますよ、そしてあなたがそこにいることに私は気づいていますよ、というメッセージを相手に向かって発することになります。この事実は、声が言葉として意味を持つためのもっとも基本的な前提、いわばコミュニケーションの基礎になっていると思われます。

そして前回、第三回は、スピーチ・ジャマーという装置が引き起こす現象を紹介しました。自分の発した声が少し遅れたタイミングで聞こえてくるとそれ以上話せなくなるというこの現象は何を指し示しているのでしょうか。私たちは自分の発した声を聴きながら話していて、その声がどのような具合に聞こえているかが、話すという行為に直接影響を及ぼす、という事実です。声を発する私はそれを聴く一瞬後の私のあり方を変えうるのだ、と言い換えてもよいかもしれませんね。

 

今回は、自分自身について物語ることが私のあり方をどう変えうるかという問題に注目し、この問題を考えるうえでとても参考になる本を紹介します。浅野智彦氏の『自己への物語論的接近 家族療法から社会学へ』という本です。浅野氏は、自分自身について語るという営みを通してはじめて私が生み出される、と述べます。まず「私」がいて、ついでそれについて私が語るというのではない、というのです。では自分自身の物語とはどのような特徴をもった言語活動なのでしょうか。三つの特徴が挙げられています。まず「視点の二重性」。物語るということは、語り手としての私の視点とは別に、語られた物語の登場人物としての私をもう一つの視点として作り出す作業です。第二の特徴は、出来事の時間的構造化です。物語は、過去の無数の出来事から意味のあるものだけを選び出して関連付ける作業です。何を選び、どのような仕方で関連付けるかによって異なる物語が生まれてくるわけです。そして最後に、他者への志向です。第二の特徴である出来事の関連付けは、その結末が納得のいくものでなければなりません。では納得のいくように語るのはなぜかといえば、語り手自身とは異なる視点、つまり他者からの評価を受けることが前提となっているからです。

以上のような特徴を備えた自己物語は、私とは何者なのかを明らかにすることを目的としていますが、その物語は完成することはありません。なぜなら、その物語の中には一貫性や完結性を突き崩すようなエピソードが必ず含まれているからです。浅野氏はこれを「語りえなさ」と呼び、この語りえなさを隠蔽することで自己物語が成立するのだと説明しています。つまり、自己物語はあくまで暫定的なもので、常に変わりうる可能性を秘めている、ということです。

この本の中で特に印象深かったのは、家族という人間関係のシステムは、客観的に、人々から離れて独立に存在するのではなく、実際に言葉のやり取りをする中から生み出される、つまり会話的に構成されるものだ、という考え方です。誰が誰に対してどのようにして自己を物語るかが、その家族の人間関係のあり方を決定するということです。だから、その家族が抱える問題も、その解決も、会話の実践がカギを握ることになります。

今回このテーマを選んだのは、私の個人的でささやかな出来事がきっかけとなっています。80歳になる父親がめずらしく、ずっと昔に彼の身に起こったことやそのとき抱いた感情について語ってくれたのです。このことがあって、父親に対する私の見方は少し変わりました。皆さんも、身近な人に自己を物語ってみてはいかがでしょうか。

(明治大学 越門勝彦)

 

ラジオ3「声のつながり大学」内「声のコラム」第22回 2022年2月18日(金)放送

放送音源アーカイブ